山口県大阪事務所
山口県へのUターン情報の提供や、山口県観光物産の紹介・販売などを行っています。 山口県全般
における情報の窓口となっています。
北区梅田2−4−13
JR大阪駅下車、徒歩10分
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大江神社
蛤御門の変での殉難48士の英霊を合祀した招魂社があったところ。第二次大戦後、神霊は靖国神社や霊山護国神社に合祀されたため社殿は開放され、現在は巨大な「旧山口藩殉難諸士招魂之碑」が残されています。
天王寺区夕陽ヶ丘町
地下鉄谷町線四天王寺前夕陽丘駅下車、徒歩5分
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阿倍野墓地
現在は大阪市南霊園となっている共同墓地です。ここには大江神社から移したと思われる蛤御門の変での殉難の48基の招魂碑や、昭和31年に建てられた鳥羽伏見の戦いでの殉難者の顕彰碑があります。
阿倍野区阿倍野筋4丁目 大阪市南霊園
地下鉄谷町線阿倍野駅下車、すぐ
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花外楼
明治8年、西郷隆盛の征韓論の後、政局を収拾させるため、井上馨が薩長土の士を集めて大阪会議を開いたところです。当時は「加賀伊」と称していましたが、会議の成功を祝って、木戸孝允が「花外楼」と名付けました。当時、多くの政財官界の大物が通
い、明治維新の元勲たちがしたためた書画が資料室に保存されています。なお、資料室の閲覧には事前連絡が必要です。
中央区北浜1−1−14
地下鉄堺筋線北浜駅下車、徒歩5分
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開運山長州大師三蔵院高野寺
江戸時代に長州蔵屋敷があった場所ですが、明治の廃藩置県の際、毛利敬親公が高野山総本山金剛峯寺に寄進され、この地に弘法大師を本尊とするお寺を建てられたのが長州大師の始まりです。その後、高野山準別
格大本山三蔵院がここに移され、高野山浪速別院となっています。
西区土佐堀T丁目5−10
地下鉄四つ橋線肥後橋駅下車、徒歩5分
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大村益次郎寓地址
大村益次郎が、緒方洪庵が主催する適塾で医学・蘭学を学んでいた時に住んでいた倉敷屋作衛門の屋敷の跡には、石碑が建てられています。
西区江戸堀2丁目6−33
地下鉄四つ橋線肥後橋駅、徒歩10分
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大村益次郎殉難の碑
明治2年、京都で襲撃され重傷を負った大村益次郎は、大阪病院に入院しましたが、敗血症をおこし死去しました。病院の東南角には殉難の碑が建てられています。なお、その墓は、遺言により緒方洪庵の墓のそば(龍海禅寺:北区同心1−3)にあります。
中央区法円坂2丁目(国立大阪病院東南角)
地下鉄谷町線谷町四丁目駅下車、徒歩5分
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適塾
緒方洪庵が主催した医学・蘭学の塾で、大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内を始め、日本全国から集まった多くの塾生たちの学舎で、史跡・重要文化財に指定されています。山口県出身の入塾者は全国で最も多く、当時の記録も残っています。
中央区北浜3丁目3−8
地下鉄御堂筋線淀屋橋駅下車、徒歩5分
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雪舟寺
大内時代に山口市に滞在し、多くの作品を残し、大内文化の立役者となった雪舟ゆかりのお寺が京都東福寺にあります。
東山区本町15丁目東福寺山内
JR奈良線東福寺駅下車、徒歩15分
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池田屋事変殉難烈士之墓
吉田稔麿など池田屋事変の殉難志士が埋葬された三縁寺は昭和54年に移転し、殉難者の墳墓も岩倉の閑静な地に移転改葬されました。
左京区岩倉花園町606
京都バス岩倉花園町バス停下車、すぐ
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竹林寺の六角獄舎殉難志士之墓
池田屋事変で捕われ、六角獄舎につながれていた志士たちは、蛤御門の変に際し逃亡を恐れた幕吏によって斬首されました。その数は37名にのぼり、当時最大の悲惨な事件でした。その遺骸は竹林寺に合葬されています。
上京区下の下立売通
御前通西入り行衛町455
山陰本線嵯峨野線円町駅下車
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相国寺の禁門変長州藩殉職者墓所
蛤御門の変(別名禁門の変)で殉難した長州藩士等は約200名にのぼりますが、そのうち20数名が相国寺に葬られています。
上京区相国寺門前町
地下鉄今出川駅下車 |
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上善寺の長州人首塚
蛤御門の変に際し自刃した松陰門下の四天王の一人「入江九一」他7名は、越前藩の菩提寺であった上善寺に葬られています。墓の前面
右手には「上善寺境内長州人首塚碑」が建てられています。
上京区鞍馬口通
寺町東
地下鉄鞍馬口駅下車
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山崎天王山の十七烈士の墓
蛤御門の変の最後の決戦地である山崎天王山には、福岡藩の眞木和泉を始め壮烈な討死を遂げた17人の志士の招魂碑と墓が建てられています。なお、この中には長州藩士は入っていません。
大山崎町
阪急京都線大山崎駅下車 |
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天龍寺
蛤御門の変に際し、国司信濃と来島又兵衛が率いる隊は、嵯峨天龍寺に陣を敷きました。天龍寺に殉難者の遺蹟らしきものは残っていません。
右京区嵯峨
JR嵯峨野線嵐山駅下車、徒歩10分
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東福寺と退耕庵
鳥羽伏見の戦いにおいて、長州軍は本陣を東福寺に置きました。この戦いでは大勝利をおさめましたが、殉死者が49名出ました。そのほとんどがこの東福寺近くに葬られ、毛利元就以来の長州との因縁で退耕庵がその菩提所となりました。退耕庵は戊辰の役に際しての防長殉難者の菩提所でもあります。なお、退耕庵の本殿は戊辰勤王殿と称しています。
東山区本町15丁目
JR奈良線東福寺駅下車、徒歩15分
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霊山招魂社・霊山墓地
霊山は幕末維新の動乱期に京都で殉難した、防長出身者を始め全国36都道府県の志士の大半が眠り、その霊を祀る招魂社や墓碑などがある聖地です。ここに祀られている主な防長出身者は、来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一などです。
東山区清閑寺霊山町
京阪本線四条駅下車
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霊山歴史館
松下幸之助ほか17名の発起人によって設立された霊山顕彰会が整備を進めた霊山歴史館には、明治維新の先覚志士などの遺品・遺墨の収蔵・展示などが行われています。
東山区清閑寺霊山町
京阪本線四条駅下車
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蛤御門
1864年に起こった蛤御門の変の舞台です。門のはりには、当時の鉄砲の弾傷などが残り、当時の激戦の名残をしのぶことができます。
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大村益次郎遭難跡の碑
大村益次郎は近畿の各地を巡視中の明治2年、京都の木屋町通の宿に宿泊中、徴兵制に反対する保守派の士族に狙撃され重傷を負いました。これがもとで益次郎は死亡しますが、この遭難の地には記念碑が建てられています。
中京区木屋町通御池上る
地下鉄東西線京都市役所前下車
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桂小五郎の像
京都ホテル一帯は、かつて長州藩の藩邸があったところです。ホテル北側の道路沿いには、明治維新を成し遂げ、近代日本の礎を築いた桂小五郎の像が建てられています。
中京区河原町御池
地下鉄東西線京都市役所前駅下車
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桂小五郎・幾松寓居跡
桂小五郎とその妻幾松が住んでいたところは、長州藩の控屋敷でもあった旅館幾松です。寓居跡は「幾松の部屋」として、当時のまま保存されています。
中京区木屋町通御池上る
地下鉄東西線京都市役所前駅下車
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東大寺南大門の仁王像
東大寺南大門の仁王像には徳地町産の桧が使われていることが、年輪調査から判明しています。
奈良市雑司町406−1
近鉄奈良線奈良駅下車、徒歩15分
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東大寺大仏
東大寺大仏の建造にあたっては美東町で掘り出された銅が使われました。
奈良市雑司町406−1
近鉄奈良線奈良駅下車、徒歩20分
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奈良国立博物館
明治27年に竣工した帝国奈良博物館(現奈良国立博物館)は、ルネッサンス様式の欧風建築としては日本を代表するもので、重要文化財に指定されています。この建物を設計したのは、現在の迎賓館や京都国立博物館を設計した山口県出身の片山東熊です。
奈良市登大路町50
近鉄奈良線奈良駅下車、徒歩10分
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奈良国立博物館所蔵の鰐口
「山口」の文字が標記された現存する最古のものは円政寺にあった鰐口ですが、これは現在、奈良国立博物館が所蔵しています。
奈良市登大路町50
近鉄奈良線奈良駅下車、徒歩10分
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妙光寺
大内義弘は1392年、山名氏が起こした乱(明徳の乱)を鎮定した功により、将軍足利義満から、その旧領のうち和泉・紀伊の2カ国を与えられ、堺を博多とともに朝鮮貿易の拠点として大いに栄えました。その当時に義弘が堺に建立したお寺が妙光寺ですが、戦争により殆ど消失してしまい、建立碑と大内菱の入った門瓦がわずかに名残を留めています。
堺市南旅籠町
阪堺線御陵前駅下車、徒歩10分
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大内義弘の墓
大内義弘は1399年に起こした応永の乱により堺市で戦死しました。本行寺の墓所の片隅には、義弘の墓がひっそりと建っています。
堺市西湊町2丁目
阪堺線御陵前駅下車、徒歩5分
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残念さん
蛤御門の変の後、尼崎で幕兵に捕らわれ「残念、残念」と絶叫しながら切腹して果
てた奇兵隊の勇士、山本文之助の墓は、「残念さん」の名で尼崎市民に親しまれており、合格祈願などの参詣者が絶えません。また、お詣りすると残念の厄払いになると信じられています。
尼崎市杭瀬南新町4−9−10
阪神大物駅から北へ徒歩5分
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