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青木周弼あおきしゅうすけ  
   1803年、現在の東和町和田に医者の青木玄棟げんとうの長男として生まれた周弼は、弟・研蔵けんぞうとともに長崎で蘭学(オランダの学問)を学びました。西洋医学に精通 していた周弼は、当時世界中で恐れられていた伝染病の天然痘てんねんとうを予防する種痘しゅとうを長州藩に取り入れ、多くの人の命を救いました。また、藩校明倫館の中に医学館を設け、蘭学書の翻訳や医者の育成に努めました。  
 
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青木周蔵あおきしゅうぞう  
   1844年、山陽町埴生はぶに生まれた周蔵は、福沢諭吉ふくざわゆきちの勉学の方法に習い、まず蘭学らんがくを学びましたが、やがて藩校明倫館で学び、藩医はんい青木研蔵あおきけんぞうの養子になった後、ドイツの大学に留学して政治の学問を修めました。帰国後、外交官となり、外務大臣を2度務め、低い地位 にあった日本を世界の国々と平等な地位にするため、不平等な条約の改正に努めました。  
 
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浅田栄次あさだえいじ  
   1865年、徳山藩士の長男に生まれ、東京帝国大学で数学を学んだ後、渡米して神学・言語学を学び、1893年、シカゴ大学第一号の博士号を取得しました。現在でもシカゴ大学のカレンダーには、彼が博士号を受けた6月26日が「浅田栄次の日」として記されています。帰国後は現在の東京外国語大学の基礎を築くとともに、同大学教授や文部省の英語教授法調査委員などを歴任し、日本の英語教育の発展に尽くしました。  
 
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鮎川義介あゆかわよしすけ  
   明治13年(1880)、元長州藩士鮎川家の長男として山口市に生まれ、東京帝国大学工科大学機械科に進みましたが、卒業後は素性すじょうを隠し一職工として就職しました。やがて大叔父にあたる井上馨いのうえかおるの支援を受けて北九州市戸畑とばた鋳物いもの工場を設立し、第一次世界大戦に伴う特需とくじゅ景気に乗って日立製作所など多くの企業を成功させ、日産コンツェルンの基礎を築きました。  
 
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安徳天皇あんとくてんのう  
   1178年、高倉天皇の第一皇子として生まれ、平清盛たいらのきよもりの策略によって、わずか3か月で即位 しましたが、1185年、壇ノ浦だんのうらの決戦で平家方が敗れると、二位 の尼にいのあまに抱かれて海に身を投げました。幼くして亡くなった平安時代最後の天皇の霊を静めるため、祭神として阿弥陀寺(現在の赤間神宮)にまつられ、毎年4月には先帝祭せんていさいが行われます。  
 
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石丸好助いしまるよしすけ  
   明治8年(1875)、徳山の粭島すくもじまに生まれ、瀬戸内海を船で行き来する商人となり、次第に朝鮮半島やロシアまで商売の舞台を広げました。明治40年(1907)、日本とロシアの間に漁業条約が結ばれると、ロシア沿岸の漁場でさけ・ます・かにの漁業に取り組み、北洋漁業を日本の重要な産業に発展させました。また、粭島に下水道や公会堂などを作り、橋をかけて陸続きにするなど郷土の発展に尽くしました。  
 
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伊藤博文いとうひろぶみ  
   1841年、大和町束荷つかりの貧しい農家に生まれ、幼い頃から萩で勉学に励み、松下村塾にも通 いました。やがて井上馨いのうえかおるらとともに長州藩のイギリス留学生に選ばれました。明治政府の中心人物として何度も欧米諸国に行って憲法や政治のしくみを学び、明治18年(1885)に内閣制度ができると初代の内閣総理大臣となりました。彼の努力によって、日本は憲法に基づいて議会政治が行われる国になりました。  
 
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井上馨いのうえかおる  
   1835年、山口市湯田ゆだに生まれ、萩の明倫館で勉学に励み、伊藤博文いとうひろぶみらとともに長州藩のイギリス留学生に選ばれました。ロンドンにいるとき新聞で外国の艦隊が下関を砲撃することを知り、留学を半年で中止して帰国し、高杉晋作の通 訳として講和に努力しました。1864年、俗論党に襲われて重傷を負いましたが一命をとりとめ、維新後は大蔵大臣や外務大臣を務め、新しい政治の発展に尽くしました。  
 
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井上勝いのうえまさる  
   1843年、萩に生まれ、長崎や函館はこだてで西洋の学問を学び、伊藤博文いとうひろぶみらとともに長州藩のイギリス留学生に選ばれました。数学や理化学、鉄道技術を研究して帰国し、明治4年(1871年)に明治政府の鉄道局長となりました。当時日本の鉄道は技師から機関手までみんな外国人でしたが、神戸で鉄道技術の見習生を養成し、京都・大阪間の鉄道を日本人だけの手で完成させ、日本の鉄道の父と呼ばれました。  
 
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岩崎民平いわさきたみへい  
   明治25年(1892)、新南陽市富田とんだに生まれ、徳山中学から東京外国語学校、東京帝国大学などを経て、東京外国語学校の教授となりました。教授在職中の昭和7年(1932)、「研究社新英和大辞典」の改訂作業にたずさわり、新語や学術語を増やし、アメリカで使われる言葉や用法を多く取り入れるなど実用的な辞書を完成させました。その後も多くの英語辞書の編さんに取り組み、英語教育の発展に道を開きました。  
 
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