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寺内正毅てらうちまさたけ  
   1852年、山口市平川ひらかわで貧しい藩士の家に生まれ、寺内家の養子となりました。戊辰ぼしん戦争の功績を大村益次郎おおむらますじろうに認められて大阪兵学寮へいがくりょうに入り、やがて陸軍大臣になりました。明治43年の韓国併合かんこくへいごう後、初代朝鮮総督ちょうせんそうとくを務め、大正5年には内閣総理大臣となりますが、米騒動こめそうどうで総辞職しました。  
 
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長岡外史ながおかがいし  
   1856年、下松市末武すえたけの庄屋の家に生まれ、萩の長岡家の養子となりました。山口の明倫館に入り、日本外史を暗しょうする姿を見た旧藩主毛利元徳もとのりから外史の名をおくられました。明治38年(1909)、官民合同の「臨時軍用気球研究会」初代会長となり、日本の航空発展に尽くしました。また、陸軍に導入されたスキーを普及させて雪国の生活に役立て、日本のスキーの先駆者と呼ばれています。  
 
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中原中也なかはらちゅうや  
   明治40年(1907)、山口市湯田ゆだで生まれ、山口中学校(いまの山口高等学校)の頃から文学に熱中しました。十代半ばで京都に移ると現代詩をつくりはじめ、やがて東京に出て多くの作家や詩人と交わり、昭和9年(1934)に詩集「山羊やぎの歌」を出して注目を集めました。病気のため若くして亡くなりましたが、豊かな心や独特の美しいリズムを持っている彼の詩は、いまでも多くの人に愛されています。  
 
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成瀬仁蔵なるせじんぞう  
   1858年、山口市吉敷よしきで士族の家に生まれ、郷校ごうこう憲章館けんしょうかんに入り、県教員養成所を経て、小学校の校長になりました。同郷の牧師、沢山保羅さわやまぽうろとの出会いをきっかけにキリスト教の洗礼せんれいを受け、大阪で梅花ばいか女学校を設立しました。さらに明治34年(1901)には、東京に日本初の女子大学となる日本女子大学を設立して、女子教育の基礎を築きました。  
 
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縄田尚門なわたひさと  
   明治30年(1897)、宇部市中野なかのに生まれ、小学校の頃からスポーツが得意で興風こうふう、中学校(いまの小野田高等学校)を卒業し、早稲田大学に入りました。在学中に、5000mなどの日本記録を次々にぬ りかえ、東洋オリンピック(いまのアジア大会)の1500mでは新記録で優勝しました。引退後は、ベルリンオリンピックのコーチや東京オリンピックの組織委員を務め、優れたマラソン選手を育てました。  
 
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乃木希典のぎまれすけ  
   1849年、長府藩士の子として江戸麻布あざぶの毛利藩邸で生まれ、下関市長府ちょうふで育ちました。萩の藩校明倫館で学び、吉田松陰の先生だった玉 木文之進たまきぶんのしんの教えも受けました。明治になると陸軍の軍人となり、日露戦争では司令官として旅順りょじゅんの戦いを指揮しました。後に学習院院長に就任すると、松陰の教えにならい、ぜいたくをいましめ、正義を大切にする教育を行いました。  
 
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浜村秀雄はまむらひでお  
   昭和3年(1928)、秋穂あいお町(現山口市)花香北はながきたで生まれました。陸上で日本のトップ選手を目指しますが、中距離に自身の限界を感じ、昭和26年、山口市湯田ゆだで開かれた全国大会からマラソンに転向しました。その後国内の数々の大会で優勝を重ねて昭和30年のボストンマラソン大会の日本代表に選ばれ、大会新記録で優勝しました。引退後は実業団の陸上部の監督などを務め、とくに女子長距離選手の育成に努めました。  
 
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林芙美子はやしふみこ  
   本名をフミコといい、明治36年(1903)、下関市田中たなか町に生まれました。名池めいち小学校に入学しますが、母の仕事により北九州など各地を転々としました。21歳で上京し、さまざまな職業を経験しながら文学活動の下地をつくり、昭和5年「放浪記ほうろうき」で作家として認められました。その後も多くの優れた作品を発表しましたが、不思議なことに作品の中では故郷下関をほとんど語りませんでした。  
 
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広中平祐ひろなかへいすけ  
   昭和6年(1931)、由宇町(現岩国市)で生まれ、柳井高等学校、京都大学を経てアメリカに渡り、コロンビア大学教授の後、ハーバード大学教授になりました。昭和45年(1970)、各種の多様体上の特異点の解消に関する研究で、数学界のノーベル賞といわれるフィールズ賞を受賞しました。平成8年(1996)に故郷に戻って山口大学学長となり、さまざまな画期的かっきてきなな試みを行い、先進的な大学づくりに取り組んでいます。  
 
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福原越後ふくばらえちご  
   1815年、徳山藩主 毛利広鎮もうりひろしげの六男として生まれ、長州藩士 佐世親長させちかながの養子となりました。1851年、家老に昇進し、1858年、家老にしては家柄が低すぎることから、藩名により福原家の家督かとくを継承しました。その後は国家老として藩主・毛利敬親もうりたかちかを補佐し、尊王攘夷そんのうじょういを推進し、禁門きんもんの変(蛤御門はまぐりごもんの変)を起こしますが、幕府軍に敗れました。その後、禁門の変と幕府による長州征伐ちょうしゅうせいばつの責任を取る形で、1864年、岩国の龍護寺で自害しました。  
 
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福原芳山ふくばらほうざん  
   1847年、長州藩の上級藩士粟屋親陸あわやちかむつの次男として生まれ、宇部領主福原越後ふくばらえちごの養子となりました。1864年11月12日、養父の越後が禁門きんもんの変の責任を取り自害すると、家名は断絶となりました。1867年、藩命により大英帝国へ留学し、1874年に帰国。不正に独占されていた厚狭郡内の採鉱権を、私財を投げ打って買い戻し、その後の宇部の炭鉱産業発展の基礎を築きました。  
 
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藤岡市助ふじおかいちすけ  
   1857年、岩国市錦見にしみの貧しい家に生まれ、岩国の藩校養老館ようろうかんに学んだ後、工部大学校に進み、同校の教授になりますが、日本の工業の発展に努めるため、民間企業の技師長になりました。私財を投じて白熱灯はくねつとうの研究に打ち込み、さまざまな製品の国産化に努め、日本のエジソンと呼ばれました。彼が電気局の式典でアーク灯をともした3月25日は、電気記念日となっています。  
 
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