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河上徹太郎かわかみてつたろう  
   明治35年(1902)、父の勤務先長崎市で生まれたが、河上家は吉川藩に仕えた岩国の士族でした。東京大学経済学部を卒業し、井伏鱒二いぶせますじ三好達治みよしたつじ永井龍男ながいたつおらとともに「作品」の同人となり、文学活動を始めました。多くの音楽評論、文学評論を発表し、近代批評の基礎を築きました。日本芸術院賞や野間文芸賞などを受賞したほか、文化功労章を受け、岩国名誉市民となりました。  
 
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河上肇かわかみはじめ  
   明治12年(1879)、岩国市錦見にしみの吉川藩士の家に生まれ、山口高等学校から東京大学法科に進み、経済学者を志しました。儒教じゅきょうなどの伝統的な倫理的・宗教的な思想の影響を受けて、次第に社会主義に傾倒し、昭和7年(1932)には共産主義者に対する思想弾圧によって投獄されますが、生涯にわたって信念を曲げず、日本のマルクス主義経済学の先駆者として科学的社会主義の紹介・普及に努めました。  
 
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河田嗣郎かわたしろう  
   明治16年(1883)、柳井市伊陸いかちの庄屋の家に生まれ、京都帝国大学法学部を卒業し、ドイツ留学を経て法学博士となりました。後に大阪商科大学長となり、大学の経営に当たるかたわら「経済学原論」、「農業経済論」、「農村問題と対策」、「家族問題と婦人問題」などの多くの著書や論文を執筆するなど、多くの功績を残しました。また趣味も豊かで書画をよくし、刀剣、陶器にも造けいが深かったといわれています。  
 
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岸信介きしのぶすけ  
   明治29年(1896)、田布施町の佐藤家の次男として山口市で生まれ、後に父の実家を継いで岸姓を名のりました。東京大学卒業後、農商務省に入り、事務次官を経て商工大臣となりました。戦後、昭和32年(1957)から2度にわたって内閣総理大臣に就任し、26か国を訪問して積極的な首脳外交を行いました。また、政治生命をかけて日米安全保障条約の改定に取り組み、昭和35年(1960)、新しい条約を締結しました。  
 
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吉川広嘉きっかわひろよし  
   岩国藩第三代藩主の吉川広嘉は、毎年のように氾濫はんらんする錦川にしきがわに流されない橋をかけようと、約10年の歳月をかけて実験と研究を繰り返し、4つの頑丈な石の橋脚と5つのそり橋からなる錦帯橋きんたいきょうを完成させました。この橋は昭和25年(1950)にキジヤ台風で流されるまで、276年間も不落をほこりました。現在の錦帯橋は昭和28年(1953)に市民の願いにより復元されたものです。  
 
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木戸孝允きどたかよし  
   1833年、萩市呉服ごふく町の藩医和田家に生まれ、隣家の養子として桂小五郎かつらこごろうと名のりました。藩校明倫館で勉学に励み、吉田松陰の教えも受けました。薩長さっちょう同盟を結ぶなど、長州藩の指導者として活躍し、維新後は版籍奉還はんせきほうかんの実現に中心的役割を果 たしました。薩摩の西郷隆盛さいごうたかもり大久保利通おおくぼとしみちとともに維新の三傑といわれます。  
 
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久坂玄瑞くさかげんずい  
   1840年、萩市の藩医の家に生まれ、藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰の門下生となり、高杉晋作と並んで「松下村塾の双璧そうへき」と呼ばれました。松陰の死後はその遺志を継いで松下村塾のリーダー格となり、英国公使館の焼き討ちや米国商船ペンブローク号の砲撃など、攘夷じょういを実行に移しました。1864年、禁門の変きんもんのへんを止められなかった責任を感じ、満23歳の若さで自刃じじんしました。  
 
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国木田独歩くにきだどっぽ  
   幼名を亀吉といい、明治4年(1871)に千葉県で生まれましたが、4歳のとき父の転勤で山口に移り、少年時代を過ごしました。東京専門学校(現早稲田大学)を中退した後、田布施町麻里府まりふに戻ると、松下村塾にならって波野英学塾を創設し、子どもの教育に当たりました。その後、二十代前半まで柳井で過ごし、「少年の悲哀」「酒中日記」など、ふるさとや少年時代の思い出などを題材とした数々の名作を残しました。  
 
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国司信濃くにししなの  
   1842年、藩士 高洲元忠たかすもとただの次男として生まれました。藩士、国司迪徳こくしみちのりの養子となり、1847年に家督かとくを継いで大組頭おおくみがしらとなりました。1863年、久坂玄瑞くさかげんずいらと共にアメリカ船を砲撃した事件に参加し、この功績により、下関防備総奉行に任じられます。その後、家老職に昇格し、益田親施ますだちかのぶ福原越後ふくばらえちごと共に、禁門きんもんの変を引き起こしますが、敗れました。責任をとる形で、徳山澄泉寺で自害しました。  
 
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久原房之介くはらふさのすけ  
   明治2年(1869)、萩市唐樋からひ町の豪商ごうしょうの家に生まれ、慶応義塾けいおうぎじゅくに進みました。大正元年(1912)に久原鉱業を設立してアジア全土に事業を展開し、第一次世界大戦でばく大な利益をあげると、日本汽船や日立製作所などを次々に設立しました。やがて恐慌の影響による事業の行き詰まりを機に政治家に転身し、田中義一たなかぎいち内閣の逓信ていしん大臣などを務めました。  
 
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月性げっしょう  
   1817年、大畠町遠崎とおざきの寺に生まれ、豊前ぶぜん(今の大分県)の塾で学んだ後、全国各地を回ってさらに多くのことを学び、外国の圧力から日本を守らなければいけないと感じました。1847年にふるさとに戻ると、清狂草堂せいきょうそうどうと名づけた塾を開き、国を守るためには、海から来る敵に対して守りを固めることが必要だと説きました。このため「海防僧かいぼうそう」と呼ばれています。  
 
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岡十郎おかじゅうろう  
   阿武町奈古に生まれ、慶應義塾を卒業後、福沢諭吉の教えを受け水産業の発達を志しました。わが国で初めてノルウェー式捕鯨技術を導入し、日本遠洋漁業家具式会社を設立しました。「捕鯨の父」と呼ばれています。  
 
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