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木暮実千代こぐれみちよ  
   本名を和田つまといい、大正7年(1918)、下関市彦島ひこしまで生まれました。日本大学在学中から松竹しょうちく映画に出演し、卒業後すぐに主役に抜擢ばってきされました。「青い山脈」「帰郷」など、300本以上の映画に出演したほか、舞台やテレビでも活躍しました。また広告界に進出した俳優のさきがけとしても知られています。社交家で情に厚く、福祉やボランティア活動にも熱心に取り組みました。  
 
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児玉花外こだまかがい  
   本名を伝八でんはちといい、京都に生まれましたが、児玉 家は代々萩藩士山内やまのうち家の家来でした。やがて熱血詩人として有名になり、五十代になった頃、三隅の親せきの家を突然訪れ、2か月余り長門市の湯本ゆもと温泉に滞在しました。周辺の名所旧跡を歩き、長門市のかよい小学校校歌を作詞するなど、多くの足跡を残しています。著書に「風月万象ふうげつばんしょう」「社会主義詩集」等があります。  
 
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小林和作こばやしわさく  
   明治21年(1888)、秋穂町の大地主の次男に生まれ、日本画を志して京都市立美術工芸学校、絵画専門学校に進みましたが、日本画の才能に限界を感じ、洋画に転身しました。その後、洋画家として意欲的に作品を発表しながらヨーロッパでさらに学び、晩年は広島県尾道おのみちを拠点としました。生涯にわたって自然の中に美を求め、独自の世界をつくりあげ、色の魔術師と呼ばれました。作品に「秋の山湖」等があります。  
 
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近藤清石こんどうきよし  
   1833年、萩市に生まれ、藩校明倫館に学び、藩の歴史を整理する仕事につきました。明治になり県の勤めをやめてからも研究を続け、全部で300巻をこえる郷土誌「山口県風土誌ふうどし」を完成させました。また、明治36年(1903)に開館した山口図書館に、郷土資料を集めることに力を尽くしました。さらに、大内氏がほろびるとともに絶えていた大内塗おおうちぬりを再興させたことでも知られています。  
 
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坂本壽一さかもとじゅいち  
   明治23年(1890)、柳井市日積ひづみに生まれ、県立工業学校を卒業後、アメリカに留学して自動車の技術を学びました。自動車工場に勤めるかたわら30馬力の単葉機たんようきを自作して飛行練習を行い、飛行学校を卒業してパイロット免許を取りました。帰国後、新聞社などの協力を得て全国各地で公開飛行を行ったり、会社をおこして飛行機部品の研究・製造を行うなど、日本の航空界の草分け的な存在となりました。  
 
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佐藤栄作さとうえいさく  
   岸信介きしのぶすけの実弟で、明治34年(1901)、田布施町で生まれ、大阪鉄道局長などを経て、戦後、政界に転身しました。昭和39年(1964)から連続在位 としては史上最長の7年8か月の間、内閣総理大臣を務めました。日本初の兄弟宰相であり、高度経済成長を加速させ、アメリカに占領されていた沖縄の返還を実現するなど多くの功績を残しました。昭和49年(1974)にはノーベル平和賞を受賞しました。  
 
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俊乗房重源上人しゅんじょうぼうちょうげんしょうにん  
   中国や高野山こうやさんで仏教の修行をつみ、1180年、平家へいけに焼かれた東大寺とうだいじを再建するため、還暦を過ぎて朝廷から「大勧進職だいかんじんしょく」に任ぜられました。周防国では、徳地町で巨木を切り出し、佐波川さばがわを使って運びました。再建には25年を費やしました。またこの頃、月輪寺薬師堂がちりんじやくしどうの再建や阿弥陀寺あみだじの建立などを行っています。  
 
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白石正一郎しらいししょういちろう  
   1812年、下関市竹崎たけざき町に生まれ、回船問屋かいせんどんやを営むかたわら、四十代の頃尊皇攘夷そんのうじょういをとなえる国学者の門下生となりました。やがて梅田雲浜うめだうんぴんの訪問をきっかけとして、木戸孝允きどたかよし西郷隆盛さいごうたかもりなど多くの志士が訪れるようになり、後には私財を投じて高杉晋作の奇兵隊結成を支援し、自らも会計として入隊しました。  
 
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新村出しんむらいずる  
   明治9年(1876)、父が県令(知事)として赴任していた山口市で生まれ、6年間を過ごしました。東京大学卒業後、ヨーロッパ留学を経て京都大学教授となり、言語学や国文学の研究で優れた業績をあげました。留学中にオックスフォード大学で見た大英辞典に感激して、大規模な辞書づくりに取り組み、戦争をくぐりぬ け、20年以上の歳月を費やして、昭和30年(1955)に「広辞苑こうじえん」を完成させました。  
 
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末川博すえかわひろし  
   明治25年(1892)、玖珂町の農家に生まれ、京都大学卒業後、同学教授になりますが、大学が国と対立したとき学問の自由を守るため辞任し、同郷の河田嗣郎かわたしろうに招かれて大阪商科大学の教授となりました。戦後すぐに、立命館りつめいかん大学の総長となり、市民への大学開放などの改革をすすめ、いわゆる立命館方式を確立しました。民法学の権威で、六法全書ろっぽうぜんしょの編者として有名です。  
 
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