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藤本英雄ふじもとひでお  
   大正7年(1918)、韓国の釜山ぷさんで生まれ、3歳のときに下関市彦島ひこしまに移りました。下関商業学校(いまの下関商業高校)で2度甲子園に出場し、明治大学卒業後、昭和17年(1942)に東京巨人軍に入団しました。肩を痛めた時代もありましたが、日本での生みの親といわれるスライダーを武器に再起し、日本プロ野球史上初めての完全試合の偉業をなしとげ、後に殿堂でんどう入りを果たしました。  
 
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藤原義江ふじわらよしえ  
   明治31年(1898)、下関市名池めいち町でイギリスの商人と芸者の間に生まれ、父の勧めで少年時代を東京で過ごしました。大正8年(1919)、イタリアに留学し、オペラ歌手としての道を歩み始めました。ロンドンの大使館にいた吉田茂よしだしげるの支援もあって、ヨーロッパ各国で活動を続け、アメリカでも高い評価を得ました。昭和9年(1934)には日本で初めての本格的なオペラの歌劇団を創設しました。  
 
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フランシスコ・サビエル  
   スペインの貴族に生まれ、宗教改革後に弱まっていたカトリックの勢力を取り返すため、イエズス会を設立し、インド、マラッカ、日本などで布教活動を行いました。1549年、鹿児島に上陸し、山口を通 って京都に向かいますが天皇には会えず、再び山口に戻りました。置時計や火縄銃ひなわじゅうなどめずらしい贈り物を受けた大内義隆おおうちよしたかは布教を許可し、山口市を拠点に5か月間の布教活動を行いました。  
 
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松島詩子まつしまうたこ  
   本名を内海シマといい、明治38年(1905)、柳井市日積ひづみで生まれ、柳井高等女学校(いまの柳井高校)卒業後、教員になりますが、音楽勉強のため上京した際、作曲家佐々木すぐるに勧められ歌手となりました。松島詩子の名は作曲家山田耕作やまだこうさくが命名したものです。流行歌手となった後もクラシック声楽を学び続け、オペレッタやシャンソンなど幅広く活動しました。「マロニエの木陰」で知られています。  
 
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松林桂月まつばやしけいげつ  
   本名を伊藤篤いとうあつしといい、明治9年(1876)、萩市中渡なかわたしに生まれ、幼い頃から画家としての才能を磨き、上京して野口幽谷のぐちゆうこくに師事しました。人は人、自分は自分の道を行くという信念をつらぬ き、横山大観よこやまたいかんらとともに代表的な日本画家として活躍し続け、昭和33年(1958)には文化勲章を受章しました。代表作に「渓山春色図屏風けいざんしゅんしょくずびょうぶ」「春宵花影図しゅんしょうかえいず」等があります。  
 
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宮本常一みやもとつねいち  
   明治40年(1907)、東和町の貧しい農家に生まれ、大阪で小学校教員のかたわら柳田国男やなぎだくにおらから民俗学みんぞくがくを学びました。やがて渋沢敬三しぶさわけいぞうの研究所に入って研究を続け、民俗学の権威となりました。昭和34年(1959)には文学博士号を得ています。晩年は、周防猿回しすおうさるまわしの復活や東和町郷土大学の開設など、地方文化の育成にも尽くしました。  
 
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三輪休和みわきゅうわ  
   本名を邦廣くにひろといい、明治28年(1895)、代々長州藩の御用窯だった三輪家の次男として萩市で生まれました。三十代で三輪家を継いで10代休雪きゅうせつとなると、全国の古い焼き物を研究し、独自の方法を生み出す努力をしました。また、うわ薬の調合ちょうごうも研究し、「休雪白きゅうせつじろ」とよばれる色を完成させました。後に11代を弟に譲って休和と名乗り、人間国宝に選ばれました。  
 
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村田清風むらたせいふう  
   1783年、三隅町沢江さわえの藩士の家に生まれ、藩校明倫館で学びました。藩の財政を担当する重臣として倹約をすすめ、北前船きたまえぶねによる貿易や、米・塩・紙・ろうの防長四白と呼ばれた産業をさかんにしました。また、平和な世の中に慣れてなまけていた武士に洋式の軍事演習をさせ、やる気を起こさせました。この天保の改革によって長州藩は国力を取り戻し、明治維新へとつながる力を蓄えていきました。  
 
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毛利重就もうりしげたか  
   1751年、7代目長州藩主となった重就は、御前仕組方ごぜんしくみかたを設けて藩の財政の建て直しに取り組みました。防長両国の検地けんちを行い、これによって増えた収入を撫育方ぶいくかたという役所を作って積み立てさせ、干拓かんたく塩田えんでんの開発、港の整備などを行って藩の収入を増やしました。次第に藩の財政は息を吹き返し、村田清風むらたせいふうの改革に引き継がれました。  
 
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毛利敬親もうりたかちか  
   13代長州藩主として、西洋の学問の振興に力を入れ、村田清風むらたせいふうなど才能のある者に身分を問わず仕事をさせ、藩の政治を建て直しました。「そうせい候」と呼ばれ、人の意見をよく聞く心の広い藩主で、松陰の意見も尊重し、高杉晋作や木戸孝允きどたかよしらの活躍を引き出しました。明治になると、薩摩藩主らとともに、他の大名に先がけて版籍奉還はんせきほうかんを行い、新しい国づくりに貢献しました。  
 
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