序文 山口県の歴史的環境
 
 中国山地がしだいに高度をひくめて西にい出し、半島状となって海に突き出したところ、それが本州最西端の山口県です。北から日本海、南から瀬戸内海にはさまれています。この外海と内海を結ぶ連洋れんよう運河が関門海峡で、九州に接しています。朝日は瀬戸内海からのぼり、夕陽は日本海の響灘ひびきなだに沈みます。真夏の太陽が照りかがやく高温多湿の瀬戸内海型と、冬の季節風に耐える日本海型───、陽気な働き者と口かずの少ないしっかり者が、両々あいまって周防すおう長門ながと [ 防長ぼうちょうと略称する ] の歴史をあゆんできたのです。
 慶長けいちょう5年[1600]の関ヶ原の戦いで西軍に属した毛利もうり氏は、広島の本拠を追われ、防長2国に押し込められました。貧しい外様とざま大名の苦し みが、藩初から領民をおそい、加えて幕府の圧政あっせいに耐える2世紀半でした。
  長州藩は新しい城を長門国の萩に築き、ここが政治の中心となったので、周防と長門はいわば支配と被支配の関係となり、両地域間の矛盾が芽生えました。たとえば幕 末に近い、天保2年[1831]の防長大一揆の震源しんげん地は周防の瀬戸内地方です。この一揆は財政困難にあえぐ長州藩の改革を大きく推進するきっかけとなりました。
 瀬戸内地方を、生産地として振興させ、下関港をはじめ北前きたまえ航路に直結した港湾を開発して商業活動に力を入れました。とくに関門海峡は長州藩の生命線と もいうべき航路で、経済的、軍事的に防長の命運をになっていました。かつては源平争覇げんぺいそうはの決戦場となり、幕末には欧米列強との国際紛争をくりひろげて、維新史を旋回せんかいさせたのです。古来、瀬戸内海は、京都と九州の大宰府だざいふをつなぐ「海の王路」でした。その中継航路としての関門海峡を日本史の本流が通 過したのです。
 周防・長門を躍動させながら改革をかさね、薩摩とならぶ西南雄藩せいなんゆうはんにのしあがった長州藩は、やがて幕府の抑圧をはねかえして明治維新を先駆せんくしました。防長では土着と中央志向を同居させる人間の「果 て感覚」が大きく 作用しました。吉田松陰よしだしょういんは「本州最西端のこの辺境へんきょう を世界の真ん中と思え。天下を奮発震動ふんぱつしんどうさせる者はここから輩出 はいしゅつするであろう」と、高杉晋作たかすぎしんさく伊藤博文いとうひろぶみ松下村塾しょうかそんじゅくの若者たちを激励し、割拠かっきょの成 果を予言しました。長州人は防長に土着、割拠し、逆境を克服して「天下を奮発震動」させたのです。
 かつて西国を席巻せっけんした大内氏、また毛利氏の足跡を誇る覇気はきに満ちた歴史感覚、そして豊かな自然と風土こそが、長州人のエネルギーの源泉でした。 それは未来への可能性を秘め、時空を超えてなお現代に脈打つ山口県の歴史的環境です。
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