第二部 明治維新の主人公達

主人公達の活躍のあらまし
「晋作の識、玄瑞の才」 〜なぜ高杉晋作は英雄になれたのか?
 吉田松陰は人を感化させる天才でした。松下村塾の門下生はもちろんのこと、萩の野山獄や江戸の伝馬町獄などで松陰と出会った人々は、不思議なほど松陰に感化されていきました。その松陰のもう一つのたぐいまれな能力は、周囲に集まるひとりひとりの資質と能力を見分けて自在に対応する力を持ち合わせていた点です。例えば、松下村塾の双璧と謳われた高杉晋作や久坂玄瑞も決して松陰を師と仰いで入門したわけではありませんでした。ところが、その感化力によってすぐに二人を感化させた松陰は、この二人の異なった資質と能力を素早く見抜き、「晋作の識、玄瑞の才」と二人を評価しながら、お互いを競わせたのです。幼いころから英才の誉れ高く、利発であった玄瑞に対して、晋作は学問では決して玄瑞にかなうことがありませんでした。しかし、晋作には松陰が識と称した資質が備わっていたのです。その識とは、現代でいう数学ができるとか記憶力がよいというような、いわゆる勉強のできる能力とは異なったもので、炯眼けいがん、洞察力、直感力に近い意味、つまり先を正しく見通す力、状況に応じ、特に危機に際して機敏で的確な判断と行動ができる能力のようなものを表現していたと考えられます。
  明日をも知れぬ動乱の世にあって、この識を持ち合わせていたおかげで、才を持ちながら蛤御門の変に殉じた玄瑞とは違い、幾多の危機を乗り越え、奇兵隊を結成して大田絵堂の戦いや四境戦争を勝利に導き、維新回天の立役者となった晋作が、日本史上最大の英雄のひとりと成り得たのです。
 



民衆のパワーを結集しよう〜草莽の崛起そうもうのくっき
 開国後の日本では、外国のいいなりになって屈しているかのように見える弱い態度の幕府に対し、外国を追い払い日本国をどうやって守るかという強い気持ちをもっている人たちがいました。それを攘夷じょういといいます。その中心になったのが松陰を始めとする長州藩の志士たちでした。松陰は幕府を倒すための力を、はじめは藩に期待しましたが、封建制度から抜け出ることのできない藩に失望し、残るは民衆の力しかないと思っていました。そして民間からすぐれた人物があちこちからわき出るように出て、その力を結集して自由を勝ち取るという大きな期待を民衆にかけました。これを「草莽の崛起」といいます。松陰が処刑され、その亡き後、松下村塾から巣立った松下村塾生グループの高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔(のちの博文)などの若者は、「強い勢力を動かして、幕府を倒し、自由を勝ち取らなければならない」という松陰の志をうけついで、幕末維新の激動期に活躍していったのです。

 

 



そうだ、戦うためのお金を集めよう!〜一燈銭申合いっとうせんもうしあわせ〜
 松陰が江戸で刑死した翌年の1860年(万延元年)、外国に対して弱い幕府に変わって天皇を中心とした新しい政権を作ろうという尊王派と、外国を追い払って外国と関わらない強い日本をつくろうという攘夷派の二つの考えが結びついた尊王攘夷論を掲げる気運が強くなってきました。この考えを持つ人たちを尊攘派といいます。幕府は力でこの運動をする中心人物をとらえて処刑していました。これが安政の大獄です。この幕府のやりかたに怒った水戸浪士らは、幕府の中心であった井伊直弼大老を桜田門外で暗殺しました。つづいてアメリカ公使館のヒュースケンが尊攘浪士に殺害され、政情は激しく揺れ動いていきました。また長州では、下関港にイギリス軍艦が入港し、土地の者をおどろかすという事件があり、長州藩は外国の侵略にそなえる必要性をどこよりも強く感じはじめました。その結果 、開国・通商を求める外国人を排除しようという攘夷思想はますます高まり、幕府との対立もますます深まっていったのです。
 そんな情勢の文久元年、一燈銭申合わせという名の会合が旧松下村塾の講義室で開かれました。集まったのは、久坂玄瑞、中谷正亮、山県小輔をはじめ、松陰をしたう人々10数人でした。「お金がなくて、いざというときに江戸や京都に進出することができない。ならば資金をつくろう」という会で、松陰が書き残した「講孟余話こうもうよわ」の写本をつくって、これを売ってお金を積み立てようというものでした。この会の発足は、松下村塾グループの団結心を固めるきっかけになりました。長州藩では、尊王攘夷をさけぶ気運がどんどん高まり、幕府の対決姿勢は深まっていましたが、その行動を指揮するのは、松下村塾出身の人たちだったのです。
 



上海を見て衝撃をうけた、高杉晋作の決意は
 長州藩の直目付長井雅楽ながいうたは、外国の力の強さを知って、日本人は公武合体して海外の勢力に対抗しようという考えをもっていました。長井は「航海遠略策こうかいえんりゃくさく」という論文をもって、藩の考えとして広めようとしましたが、攘夷論を唱える松下村塾生にとっては、長井の考えは開国貿易論で、ひいては日本を滅亡させると猛反対しました。そこで久坂玄瑞、松浦松洞、中谷正亮たちは長井雅楽を暗殺しようと企てたのです。しかし長井の考えは幕府に受け入れられず、長井雅楽は切腹をしてしまったのです。暗殺の思いを遂げることができなかった松浦松洞は自害、ついで中谷正亮も病死してしまいます。ここで門下生の俊才を二人失ってしまったのです。
 一方、高杉晋作は長州藩の代表として幕府の使節船に乗って、上海に行っていました。ここでアヘン戦争以来欧米列強の半植民地と化した清国の様子を目の当たりにして、「いまに我が国もこのようにならざるを得ないのか」と強い衝撃を受け、攘夷に徹することを固く決意したのです。帰国後の高杉は、一段と戦闘的になりました。 1862年(文久2年)に、伊藤俊輔、井上聞多(のちの馨)とともに品川御殿山に新築されたイギリス公使館を焼き討ちにしました。これに参加したのは13人で、うち松陰門下は高杉晋作、久坂玄瑞、有吉熊二郎、伊藤俊輔らでした。
 



アメリカ相手に戦う、熱血リーダーの久坂玄瑞
 攘夷を固く守ろうとする長州藩は、地元の関門海峡を通行する外国船を砲撃する準備を始めていました。その先頭に立ったのが、熱血の久坂玄瑞でした。1863年(文久3年)、久坂玄瑞がリーダーになって50人ほどの同志とともに下関の光明寺に本陣を置きました。血気盛んな光明寺党をつくり、そこに長州藩兵が加わり、総兵力1000人となって関門海峡を通航するアメリカ船に砲弾をあびせたのです。これが攘夷戦のはじまりになりました。つづいてフランス軍艦、オランダ軍艦を砲撃しましたが、もともと戦闘の準備のないそれらの外国船は退散し、久坂らの長州側は記念すべき最初の攘夷行動に勝利を得て歓喜しました。しかしその後、アメリカ、フランスから報復を受け、砲台は全滅してしまいました。たった2〜3隻の外国軍艦でしたが、戦闘準備の整った軍艦にはまったくかないませんでした。久坂らは、悔し涙で撤退したことは言うまでもありません。
 



高杉晋作、奇兵隊を結成
 充分な装備もない長州の無謀な攘夷行動は、あっけなく終わりを告げることになってしまいましたが、そこで、藩命を受けて、高杉晋作は奇兵隊を結成しました。これは日本における近代的な軍事組織のはじまりと言われ、兵隊は士農工商問わず、志ある者を集めた民兵隊だったことが特徴です。山県小輔(のちの有朋)をはじめ、松下村塾出身者の多くが幹部として奇兵隊に入りました。このあと、長州藩では同様の民兵隊が続々とつくられ、それらは「諸隊」といわれ、幕府との戦争では長州軍の主要な戦力になっていったのです。
 



長州藩、孤立の危機にさらされる
 ここで長州藩にとって、度肝を抜かれるような事件が起こります。奇兵隊につづき民兵隊が結成されている頃、何故か仇敵関係と思っていた薩摩藩と会津藩が結託して、攘夷派の公家、三条実美さんじょうさねとみら7人の公卿とともに、長州藩も京都から追放させられてしまったのです。関門海峡の攘夷戦の敗北に加えて、ここで長州藩は世界だけでなく、日本国までも相手に戦う羽目になり、大きな危機をむかえることになりました。
 



四天王の吉田稔麿、入江杉蔵、久坂玄瑞死す
 京都から追われた翌年の1864年(元治元年)6月、尊攘派はひそかに京都に潜伏し挙兵を企てようとしていました。土佐、熊本、長州の志士たちが旅館池田屋に集まり、京都奪還策を練っていたところに新撰組が乱入しました。ここで尊攘派の志士の多くが殺されたり、自害してしまいました。これを池田屋事件といいますが、この際、松下村塾四天王の一人、吉田稔麿(栄太郎)は重傷を追い自害、杉山松介も死亡してしまいます。これを聞いた長州藩は怒り、3人の家老は2000余名の兵を率いて京都に上り、御所の蛤御門付近で公武合体派の会津兵、薩摩勢と戦いました。これを蛤御門の変(禁門の変)といい、このときに久坂玄瑞、入江杉蔵ほか、4人の門下生が命を落としてしまいます。四天王と言われた3人までが高杉晋作を残して、この世を去ることになったのです。この変で長州軍は敗退してしまい、長州藩は御所に発砲した罪で朝敵となり、長州藩の尊攘派は最大の危機を迎えることになってしまうのでした。
 



攘夷一辺倒を捨てるその瞬間
 禁門の変で同志をなくした翌8月、関門海峡にイギリス、フランス、オランダ、アメリカの4カ国の合計17隻の軍艦が襲来し、下関を激しく砲撃しました。長州藩も反撃したものの、攻撃力の差は明らかで、あっけなく敗れ、砲台は破壊されてしまいました。戦争後の講和談判には高杉晋作が起用され、外国船の海峡の安全航行、薪炭の供給などの条件を受諾しました。これまで攘夷一辺倒で突き進んだ長州も、その方針を捨てざるを得ないときがやってきたのでした。
 



高杉晋作が見せた長州男児の肝っ玉 〜奇跡を呼んだ功山寺挙兵〜
 攘夷姿勢を捨てざるを得なくなった長州藩に追い打ちをかけるように、禁門の変で御所に発砲した罪は重いと、幕府軍は3万人という諸藩の兵を動員して、総攻撃の体勢をとってきました。長州藩は家老3人に切腹を命じ、4人の参謀者を斬首して、幕府の攻めを免れましたが、これが第一次の幕府との戦いでした。そのころ幕府に反抗するのはやめようという俗論派が現れ、暴威をふるうようになりました。井上聞多(のちの馨)は俗論派の刺客に襲われ重傷を負い、藩の重臣周布政之助すふまさのすけは政情に絶望し自殺しました。
 このままでは長州藩は滅亡すると危機感を抱いた高杉は、クーデターの兵を長府の功山寺であげたのです。しかし、俗論派のうしろには強大な幕府の征長軍が控えているため、高杉に賛同して戦おうという者はほとんどおらず、従ったのはわずか80人足らず。この中に松門下の伊藤俊輔と佐世八十郎の二人がいました。相手は2000人、およそ勝ち目のない戦いでしたが、「これよりは長州男児の肝っ玉 をお目にかけ申す」と、京都から追放され功山寺で起居していた三条実美らに言ったという言い伝えがあります。長州の窮状をみて、武士として決起しないわけにはいかないという気迫ある行動が、しかし奇跡を呼びました。奇兵隊や吉敷郡の農民が農兵隊を結成するなど諸隊が参戦し、決起軍は8000人という大きな勢力となって俗論軍を圧倒したのです。このとき諸隊を指揮したのが山県狂介(のちの有朋)でした。長州はこれで倒幕の気持ちを固め、いよいよ幕府との対決にのりだしていくことになりました。俗論派に属していた武士団も干城隊かんじょうたいの名で諸隊と力をあわせ、長州は全藩民が団結して幕府軍に備えたのです。わずかな兵を率い、死を覚悟して挑んだ戦いで勝利を得た高杉晋作。その崖っぷちでみせた「肝っ玉 」で長州の、そして日本の未来を切り開いたのです。
 



薩摩と手を結ぶ〜薩長連合成立〜
 尊攘派の中心だった長州藩の尊攘の考えが衰退し、倒幕に向けて動こうとしていたことは、他藩の運命をも左右しました。薩摩にひどい目にあわされていた長州は、薩摩を天敵のように思っていました。一方、実力のある大藩が反目していては幕府に対抗する勢力が結集できないと考えていたのが土佐藩でした。土佐藩の土方久元、中岡慎太郎、坂本龍馬らは、京都に潜入していた長州代表の桂小五郎(のちの木戸孝允)と薩摩代表の西郷吉之助(のちの隆盛)を会談させることに成功しました。特にこのときの立て役者が坂本龍馬で、藩同士が戦うのではなく、日本を一つの新しい国にしようと西郷を納得させ、ここに薩長同盟が成立したのです。このとき、早くから京都に入り、薩摩との連絡にあたっていたのが、松下村塾出身の品川弥二郎と桂小五郎でした。この同盟締結をきっかけに倒幕へと勢いは増していきました。
 



病を隠して最後まで戦った高杉晋作
 朝敵のため外国の武器の輸入を禁止されていた長州は、薩長同盟によって、坂本龍馬の仲介で薩摩から待望の軍艦と鉄砲を手にすることができました。1866年(慶応2年)、幕府軍は長州を包囲するように4つの国境から総攻撃してきます。第二次の幕府との戦いですが、長州ではこれを「四境戦争しきょうせんそう」と呼んでいます。長州の兵力は4000人、これに対し征長軍は何と10万人以上。中でも一番の激戦は「九州口の戦い」、別 名「小倉戦争」でした。関門海峡をはさんで対岸の小倉藩には2万の幕府軍、これに対し長州勢は奇兵隊と報国隊の2隊だけでわずか1000人。およそ20倍の敵と戦わなくてはなりません。長州の存亡をかけた苦しい戦いです。この最大の激戦地で指揮にあたったのが高杉晋作でした。高杉自らが軍艦へいいんまる丙寅丸へいいんまるに乗り込み、また坂本龍馬も応援に駆けつけ敵を砲撃しました。結果 的には小倉側が全面降伏しました。この勝利は幕府倒壊を決定づけることになったのです。
 このとき、実は高杉は肺結核を病んでいましたが、病を隠し、血を吐きながらも残された精魂をふりそそいで、みごとな名将ぶりを発揮したのです。翌1867年(慶応3年)4月14日、息をひきとりました。29歳。満年齢でいうと27歳8ヶ月の短くも激しく燃え尽きた英雄の生涯でした。
 



動けば雷電のごとく‥‥
 高杉晋作の死によって、松下村塾の四天王はすべてこの世から消えることになりました。晋作が死んだその年の10月、徳川慶喜は大政奉還を朝廷に上表しました。晋作は下関の清水山に埋葬されましたが、のちに墓守のために東行庵という尼寺ができました。境内には大きな「高杉晋作顕彰碑」が建っています。「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」の碑文は、伊藤俊輔(初代内閣総理大臣・伊藤博文)が松下村塾の先輩高杉晋作への思慕を込めてつくりました。明治維新に向けて、残った門下生は、伊藤俊輔をはじめ、木戸孝允、山県有朋、品川弥二郎、野村靖、山田顕義‥。その後の活躍はいうまでもありません。このように吉田松陰以下、松下村塾生の活躍は新しい日本の夜明けに貢献し、その名は日本史上に残っていくこととなったのです。まさに、私たちのふるさと長州藩の力なくしては、倒幕は果 たせず、明治の幕開けはなかったのです。
 

※幕末維新の研究は多くの人が行っており、立場や歴史観等によって諸説があります。従って、ここでの記述は、山口県としての立場から、このコンテンツの作成意図を勘案して出典の引用を行ったものです。

粕谷一希 『面白きこともなき世を面白く』 新潮社 1984年
奈良本辰也監修 『萩が生んだ若き志士』 山口県萩市(萩幕末維新祭実行委員会) 1991年
山口県教育委員会編 『ズームアップ 山口』 山口県教育委員会 1992年
池田諭 『高杉晋作と久坂玄瑞』 大和書房 1993年
プレジデント社 『プレジデント(1993年2月号)』 1993年
奈良本辰也 『図説 幕末・維新 おもしろ事典』 三笠書房 1997年
古川薫 『松下村塾と吉田松陰』 新日本教育図書(株) 1997年  
山村竜也 『目からウロコの幕末維新』 PHPエディターズ・グループ 2000年
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