第二部 明治維新の主人公達
なぜなぜワンポイント


松下村塾の「四天王」とは?
高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎、入江杉蔵の4人の俊才のこと。
それぞれの最期は
1864(元治元)6月 池田屋事件で、吉田稔麿としまろ(栄太郎、22歳)割腹、
1864(元治元)7月 蛤御門の変で、久坂玄瑞(23歳)、入江杉蔵(25歳)、戦死
1867(慶応3)4月 高杉晋作(27歳)病死  
みんな若くして死んでいった。 まさに短くても激しい生き方だった。
※( )内の歳は満年齢
 





「草莽の崛起」の意味は?
 「草莽」とは民衆の力という意味で、もともと『孟子』に出てくる「草奔」は「草むらに隠れている隠者」のこと。日本では松陰がはじめて使ったと言われている。松陰が「草莽」と呼んだ人々は一般 大衆で、その中には自分も含めて下級武士、脱藩浪士、商人、農民も入っている。「崛起」とは山のようにわきたつという意味で、いっせいに立ち上がるということ。
 





志士って何?
 松下村塾生たちは、藩の仕事を与えられ、次々と江戸や京都に出かけていった。このように村塾を巣立っていく人々を、松陰は「志士」とよんだ。『孟子』の中でも言われているように仁を備え、死を恐れない勇者のこと。この「志士」という言葉が日本で使われたのは幕末・維新に限られている。国を憂え、現状を変革しようという気概を内に燃えたたせていた、志のある人ということ。
 







松陰の肖像画を描いた松浦松洞は魚屋の子?
 松下村塾初期の門下生、松浦亀太郎(のちの松洞)は、近くに住む魚屋の子であった。絵が大好きで、将来は画家をめざしていた。絵かきに必要な漢詩を習いに松陰を訪ねてきたが、ついに画家にはならず、志士となった。最期を予期した松陰は江戸送りの前日、松浦に肖像画を描いてくれるように頼む。そのときの正座した姿の肖像画は、今でも残されている。長井雅楽の暗殺を企んでいたが、長井が切腹をしてしまったのを悔やんで、松浦も自害してしまった。
 







尊攘って?
 尊王攘夷を略した言い方。「尊王」は天皇を中心とした権力の統一国家のこと。しかし、実情は幕藩体制を否定した統一国家をめざしていたのではなく、幕藩体制強化のために天皇の存在を利用したにすぎない。幕府は、公武合体といって、幕府(武)が朝廷(公)の伝統と権威と合体することで、幕府の体制をたてなおそうとしたのだ。「攘夷」は外国を退けようという考え。開国した結果 、外国人が日本国内を横行し、貿易によって物価も高くなっていたので、志士たちは外国勢力に対して危機感をいだいていたからだ。尊王攘夷論はこの「尊王論」と「攘夷論」が融合させた考えで、水戸藩によって最初に唱えられ、国を憂う志士たちに広く支持されるようになった。
 しかし、長州は、関門海峡で4カ国(イギリス、フランス、アメリカ、オランダ)と戦ううちに、外国の強力な武力と進んだ技術に、攘夷実行は不可能と悟る。攘夷の目的を失って、やがて尊王攘夷から尊王討幕へと討幕一本に的は絞られていったのだ。
 







「航海遠略策」は幕末のすぐれた国家政策論だった?
 長州藩、直目付の長井雅楽ながいうたが唱えた開国論といわれているが、「開国」か「攘夷」かという二者択一が迫られていた当時にとって、この論のすぐれているところは、攘夷が無理なら開国という妥協案ではない点にある。攘夷論の背景になっている鎖国について、島原の乱に懲りて国を閉ざしただけであるから、この機会に開国し、公武一体となって国力を強め、世界に冠たる国家をつくりあげるのがよい、と説いた。これは明治の富国強兵に通 じる考えであったといえる。
 






奇兵隊という名はどこからついた?
 攘夷戦争で、いやというほど外国の力のすごさを見せつけられた長州藩主毛利敬親もうりたかちかは、壊滅状態の軍備をたてなおすために、高杉晋作を起用した。「策はあるか」と敬親に問われた高杉は「策は一つあります。有志の者を募って、奇兵隊という名の一隊を組織するのです」と答えた。武士階級のみならず、広く庶民のからも募集し、実力本位 の隊をつくろうとしたのだ。これは松陰の「西洋歩兵論」から学んだもので、「兵は正を以て合い、奇を以て勝つ」という孫子の兵法からとっている。藩の正規の兵に対する意味を込めて「奇兵隊」と命名する。もちろん、高杉によるネーミングだった。
 





志士たちは別名をもっていた?
 志士たちはいつ敵にやられるかわかったものではない。そこで多くの志士は、偽名を使って暗殺者の目をくらまそうとしたらしい。
例えば
  吉田松陰 ……> 瓜中万二
  高杉晋作 ……> 谷梅太郎
  久坂玄瑞 ……> 松野三平
  井上 馨 ……> 春山花輔
  伊藤博文 ……> 花山春輔(これって井上馨の偽名の順番を入れ替えただけ?)
  木戸孝允 ……> 臼田幸助
  品川弥二郎 ……> 橋本八郎
  山県有朋 ……> 萩原鹿之助 

 また、どこで聞き耳を立てているかわからないので、隠語も使っていた。
  皇室  ……> 太陽家
  将軍家 ……> 百度公
  長州  ……> 江の本
  薩摩  ……> 円十郎
  水戸  ……> 後山
  京   ……> 西方
  大坂  ……> 南方
 








晋作がクーデターをおこしたのはなぜ、功山寺だったのか?
 文久3年の、幕府が企てた京都の政変で、長州に落ちのびた三条実美以下5人の尊攘派の公家は、下関に入り、長府功山寺に潜んでいた。翌年、高杉晋作が萩の俗論派打倒のためにクーデターの兵を起こしたのは、この功山寺に三条らがいたからで、私兵ではないということを示そうということだったらしい。
 







数の上では大差の四境戦争は、なぜ勝てたのか?
 幕府の征長軍10万人以上に対し、4000人の長州軍がなぜ勝てたのか。それにはわけがある。一つは、前年から村田蔵六(大村益次郎)がおこなっていた軍政改革の成果 だといわれている。四カ国連合艦隊との戦いで惨敗した長州藩は、積極的に軍政を西洋式に変え、特に鉄砲は新式のものを取り入れていた。坂本龍馬の仲介で薩摩名義の鉄砲を数多く輸入できたことは大きかった。
 もう一つ、決定的なことは両軍の士気の差だった。この一戦で負けることは藩の滅亡という悲壮な危機感が、長州藩の結束を強力なものにしていたのに比べ、幕府の征長軍には戦意が乏しかった。というのは、幕府は長州制圧を諸藩に要請したが、出兵には莫大な費用がかかるため、諸藩はいやいや出るという形になっていたし、そもそも諸藩は長州藩にそれほど敵意はいだいていないし、幕府自体にもはや求心力が弱くなっていたのだ。さらに将軍家茂が大阪城内で病死し、総大将がいないなら戦場には長居は無用と、もともと戦意に欠けていた諸藩の兵士は引き上げようということになってしまった。
 目的がはっきりしていないと意欲は薄れ、結果的には負けてしまうといういい例だといえるし、しっかりした目標があれば勝てるということなのだ。
 





高杉晋作は面白い奴だった?
 四カ国艦隊に敗れ、講和全権として任務を果 たすとき、何と鎧直垂よろいひたたれに陣羽織という奇妙な武者人形スタイルで臨んでいた。そのときに下関の突端にある彦島を租借そしゃくさせてもらいたいという要求をイギリスから出されたが、アヘン戦争の結果 、香港を租借したイギリスのひどいやり方を思い出し、「わが国は、そもそも高天が原より〜」と古事記講釈をして煙に巻いたといわれている。外交交渉に神話が飛び出したのは本邦初で、その場で通 訳を務めていた伊藤俊輔は「晋作は気が狂った」と慌てたらしい。
 辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」で終わっているが、臨終にたちあった野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」と結んでいる。晋作にとって生きるキーワードは「面 白い」ということだったのか。
 








高杉晋作は、亡命の名人だった?
 久坂玄瑞が光明寺党を作って、外国船を砲撃に出たとき、高杉は、現時点での日本の武力では不可能と知っていて、これに参加していない。また俗論派が強くなって藩の実権が俗論派に握られると、命の危険を察して、さっさと九州に亡命してしまっている。それで「亡命の名人」と異名がついている。古い武士道からいうと卑怯者ということになるが、そうせざるを得なかったわけがある。晋作は「男子の死ぬ べきところ」という課題をずっと持っていた。死について問いただす晋作に松陰は「死は好むものではなく、また、憎むべきでもない。世の中には生きながら心の死んでいるものがいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業を成し遂げる見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである」と答えたのである。晋作はその言葉そのままに、大業を成し遂げ、生き抜いたといえるのだろう。
 
※幕末維新の研究は多くの人が行っており、立場や歴史観等によって諸説があります。従って、ここでの記述は、山口県としての立場から、このコンテンツの作成意図を勘案して出典の引用を行ったものです。

古川薫 『松下村塾と吉田松陰』 新日本教育図書(株) 1997年  
山口県教育委員会編 『ズームアップ 山口』 山口県教育委員会 1992年 
山村竜也 『目からウロコの幕末維新』 PHPエディターズ・グループ 200 0年
奈良本辰也 『図説 幕末・維新 おもしろ事典』 三笠書房 1997年 

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