「長門の国の方へ行く山道の入口であったということ、また『続日本紀(』にある逵理山(、現在の東鳳翩山((山口市)にあった鉱山(の入口であったということから、里の人が山口と言いはじめたという説」や「もともと山口氏という豪族(が古城山(に城を構(えていたので、その名にちなんで山口となったという説」などいろいろな説があり、どの説も確かな証拠がないようですが、山の入口という説が、本などでは多く紹介されています。
この山口という地名が最も早く使われた例として、中世鎌倉期の1254年に円政寺((山口市から、萩市に移っています。)の鰐口(または金鼓(の銘文(に「防州山口月輪山圓政寺天神宮建長六年五月」と刻(まれているものがあげられるということです。この鰐口は、現在、奈良国立博物館にあります。
なお、現在の山口県は、1871(明治4)年7月の廃藩置県((藩を廃止して県を置き、各県に政府の役人を府知事・県令(のちの知事)として送り込み、県をおさめさせたこと)の後、同年11月15日、旧山口県を中心に、豊浦((明治2年8月に長府藩が改称)・清末(・岩国(の旧4県が一つになり、かつての長門・周防(の二国の範囲が山口県となりました。この時、山口にあった旧山口県庁が、そのまま新県庁に定められたことからも、新しい県名には、以前からの山口県がそのまま受け継がれました。
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鰐口(横)
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