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大内文化と「西の京」
 もしもこの世に大内氏おおうちしがいなかったら?
 山口が「西の京にしのきょう」と呼ばれることはなかったでしょうし、国宝の瑠璃光寺五重塔るりこうじごじゅうのとう建造けんぞうされていなかったでしょう。 山口に大きな足跡そくせきを残した大内氏を知らずに、山口を語ることはできないのです。

 大内氏は、百済くだら国の王子琳聖太子りんしょうたいし子孫しそんと伝えられ、すでに平安時代末期には大内地方(山口市)に進出し、周防国衙こくがの在庁官として頭角を現していました。盛房もりふさ(大内氏系図によると16代)のときには、源平合戦に際し源氏に味方しています。戦況を有利に導いた功績により鎌倉幕府から特別 の待遇たいぐうを与えられ、次第に力をつけていきました。
 南北朝時代に登場した弘世ひろよ(大内氏系図によると24代)は周防の守護しゅごとなり、山口に本拠を移すとともに、厚東氏ことうしを滅ぼして長門を手に入れると、さらに石見いわみ(島根県)、安芸あき(広島県)、九州へと勢力を伸ばしました。
 続く義弘よしひろ(大内氏系図によると25代)の代になると、紀伊きい和泉いずみの守護をも兼ね、幕府にせまるほどの勢力を持つようになりました。また、大内氏は「大内家壁書」とよばれる法令集を定め、領国の治政ちせいに努めるとともに、特に貴族文化や大陸文化に強い興味を示し、朝鮮や明(中国)との貿易(勘合貿易かんごうぼうえき)で蓄えた富をもとに、街づくりや文化の受け入れを進め、山口に「西の京」の名にふさわしい文化の花を咲かせました。
 このように、輝かしい歴史を誇った大内氏ですが、1551年、義隆よしたか(大内氏系図によると31代)が家臣の陶晴賢すえはるかた謀反むほんにあい、長門市湯本ゆもと大寧寺たいねいじで自刃し、更に、晴賢の擁立ようりつした義長よしながが毛利氏に滅ぼされるに及び、その歴史は幕を閉じることになります。
大内義隆
大内義隆肖像画 
絢爛けんらんたる大内文化
 大内弘世は、京の都に上った時、町のたたずまいや文化に強く心引かれ、地形的に似ている山口の地に、京の都を手本とした街づくりを進めました。街路がいろは区画正しく整備し、大殿大路おおどのおおじ竪小路たてこうじなど京都風の名前をつけました。また、京都から八坂やさか神社や北野きたの天神(現在の古熊ふるくま神社)などをよんで、山口に新しく神社をつくるとともに、祇園ぎおん祭など盛大なお祭りをもよおして、町の生活にいろどりをそえました。
 弘世の後も大内氏は、朝鮮や明との交易によって富を蓄え、引き続き京の都を手本とする街づくりに努めました。また、大陸文化を積極的に受け入れるとともに、画僧がそう雪舟せっしゅう連歌師れんがし宗祇そうぎをはじめとする国内の文化人を多数招きました。この結果、山口は、博多はかたさかいなどのように大きな町になるとともに、絢爛けんらん(きらびやかに輝き美しいようす)たる大内文化が開花し、「西の京」と呼ばれるようになりました。
 なお、大内文化を伝える建築物としては、八坂神社本殿、古熊神社本殿、瑠璃光寺五重塔などがあり、雪舟庭も有名です。
瑠璃光寺五重塔
瑠璃光寺五重塔
・大内氏の経済と文化交流
 大陸諸国との経済・文化交流が盛んになったのは、室町時代に周防・長門の両国を拠点に、石見いわみ(島根県)、筑前ちくぜん(福岡県)、豊前ぶぜん(大分県)など7か国を支配し、西国一の勢力を誇った守護大名しゅごだいみょう大内氏の時代です。
 大内氏は、当時中国大陸や朝鮮半島の沿岸一帯を荒らした倭寇わこう征圧せいあつして朝鮮の信頼を得て、1396年、義弘のとき、朝鮮へ使節を派遣しています。その後、歴代当主による使節派遣は1551年までの約150年の間に63回にもなりました。日本と明(中国)との勘合かんごう貿易では、1401年から1547年までの間に19回、日本から遣明船けんみんせんが派遣されていますが、そのうち大内船は7回派遣され、特に最後の2回は大内氏が独占しました。大内氏は、この勘合貿易により莫大な富を得るとともに、進んだ大陸文化を積極的に吸収しました。
雪舟
雪舟
 

大内版
 大内氏は代々文芸に意をもちい、書物の出版を熱心におこないました。これら出版物を「大内版」といいますが、最古のものは、1410年に、盛見もりはる(「もりみ」と読むこともある)が刊行した「蔵乗法数ぞうじょうほっすう(一種の仏教解説書)」です。大内氏は、多くの漢籍を出版しましたが、これらの大内版は、単に京都文化の移植のみならず、広い範囲で大内文化圏を生み出しています。
 ・文明年間に大内氏の氏寺の興隆寺(山口市)で法華経ほけきょうを開版(印刷)していますが、この版木はんぎは山口県文書館に保存されています。
 ・1493年大内政弘の時に、「聚分韻略しゅうぶんいんりゃく(漢字を韻によって分類した作詩用の辞書)」が出版されました。   

勘合貿易の取扱品
 刀剣・扇子・漆器類・銅銭・生糸・絹織物・典籍などが中心でした。
 なお、大内氏が対外貿易に用いた「日本国王之印」などは、防府市の毛利博物館にあります。

もっと調べてみよう!
 大内氏が対外貿易に用いた印の写真を見たい人は、「山口県文化財のデータベース検索」で「名称」のところに「大内氏勘合貿易印等関係資料」といれて「検索」ボタンをクリックすると、大内氏勘合貿易印等関係資料をさがしてくれます。  

山口県教育委員会編 『ズームアップ 山口』 山口県教育委員会 1992年  
小川国治編 『山口県の歴史』 山川出版社 1998年   
八木 充編 『図説 山口県の歴史』 河出書房新社 1998年
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