タイトル

歴史 歴史の概観 年表 弥生人の渡来 東大寺再建と重源 壇ノ浦の決戦 大内文化と「西の京」 毛利氏 朝鮮通信使 巌流島の戦い 吉田松陰 高杉晋作  馬関戦争 幕末維新 廃藩置県と「山口県」の設置 8人の総理大臣 歴代の県知事
馬関戦争
 1863年、長州藩は、攘夷じょういを実行するため、他藩にさきがけ関門海峡かんもんかいきょうを通る外国の船を2度(第1次・第2次)に渡り、砲撃ほうげきしました。しかし、翌月、近代的な兵器を備えた列強れっきょう反撃はんげきにあい、長州藩は、あえなく敗れてしまいました。
   さらに、1864年には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ4国の連合艦隊れんごうかんたいから、17隻の軍艦により下関が大規模な攻撃を受け、長州藩は、関門海峡で戦争を行うこととなりました。
 馬関ばかん戦争と呼ばれるこの戦いで、長州藩は惨敗してしまいますが、講和こうわ後は急速にイギリスに接近し、それまでの素朴そぼく尊王攘夷論そんのうじょういろん(天皇を国政の中心とし、外国人は日本から追い払おうという考え)を開国かいこく尊王倒幕論そんのうとうばくろん(幕府を倒し、天皇を国政の中心とすると同時に、鎖国をやめ、外国と交流しようという考え)へと大転換し、幕府との2度にわたる戦争をへて、明治維新へと突き進んでいきました。
 関門海峡は、武家社会の出発点となった壇ノ浦だんのうらの源平合戦からおよそ700年後に、はからずも武家社会を終わりに導く歴史の転換の舞台ぶたいとなったのです。

馬関戦争絵図

馬関戦争
馬関戦争(砲撃)

 
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 4国の連合艦隊との戦いの後、連合軍は賠償ばいしょう(損害をつぐなうこと)を求めてきました。このとき、高杉晋作は、講和使節に任じられており、次のようなエピソードを残しています。晋作は自分が家老かろう養子ようしだといつわり物々しい格好をしてその場に行ったようです。交渉こうしょうの場で、連合軍側から下関の彦島ひこしま租借そしゃく(借りること)を求められたとき、「彦島は私たちのものではない、日本は神のしろしめす国であるから、勝手に他国には渡せない」などというようなことをいって、その時の通訳もこまってしまうようなことをいい、相手を圧倒あっとうして、租借の要求はなかったことにしてもらったということです。結果として、長州藩は、外国船が関門海峡を通行すること、必要な炭、まき、食糧しょくりょうなどを与えること、非常の際に船員を上陸させることなどを認め、賠償金は幕府が支払うことになりました。
奈良本辰也監修 『萩が生んだ若き志士』 山口県萩市(萩幕末維新祭実行委員会) 1991年 
竹内理三編 『角川日本地名大辞典 35山口県』 角川書店 1988年  
小川国治編 『山口県の歴史』 山川出版社 1998年   
八木 充編 『図説 山口県の歴史』 河出書房新社 1998年 
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