タイトル

歴史 歴史の概観 年表 弥生人の渡来 東大寺再建と重源 壇ノ浦の決戦 大内文化と「西の京」 毛利氏 朝鮮通信使 巌流島の戦い 吉田松陰 高杉晋作  馬関戦争 幕末維新 廃藩置県と「山口県」の設置 8人の総理大臣 歴代の県知事
幕末維新
 長州藩(山口県)は、馬関戦争ばかんせんそう惨敗ざんぱいしたこともあり、尊王攘夷そんのうじょうい論から開国・尊王倒幕そんのうとうばく論へと考え方を変え、江戸幕府との2度にわたる戦い(第1次は1864年、第2次は1866年)を経て、明治維新めいじいしん(日本を近代国家とするため、江戸幕府にかわってできた新政府が進めた改革と社会の変化のこと)へと突き進みました。


 幕府は、他藩にさきがけておこなわれた長州藩の下関しものせきでの外国船砲撃ほうげきなどの攘夷運動の高まりをおそれ、天皇てんのう薩摩さつま藩の支持を取り、1863年に急進派の公家や長州藩士を京都から追放しました。その翌年、京都の池田屋で、京都守護職しゅごしょくの指揮下にあった新撰組しんせんぐみ浪士ろうしが、尊王攘夷派の志士を殺傷さっしょうした事件をきっかけに、まき返しに出た長州藩は、京都にせめのぼり、蛤御門はまぐりごもんの変、または、禁門きんもんの変をおこしましたが失敗に終わりました。この時、久坂玄瑞くさかげんずい入江九一いりえくいち寺島忠三郎てらしまちゅうざぶろう真木和泉まきいずみをはじめ攘夷運動の数多くの指導者が死傷ししょうしました。長州藩は、蛤御門の変の罪を問われ、幕府に攻められ(第1次の戦い)屈服くっぷくさせられました。
 
功山寺挙兵(晋作銅像)
功山寺挙兵(晋作銅像) 


1863年の2度の馬関攘夷戦での敗戦などにより、近代的な兵器を備えた外国の強さを思い知らされた長州藩は、高杉晋作たかすぎしんさくに対策をたてるように命令しました。晋作は、これにより「奇兵隊きへいたい」を創設(1863年)しました。この奇兵隊は、外国の軍隊と戦うことができ、戦意低調な武士にたよらず身分に関係なく入隊できるという新しい型の軍隊でした。高杉は、そのころ幕府に従うという考え方の人たちが多くなった藩の考え方を改めさせようと、1864年に下関の功山寺こうざんじ挙兵きょへいし、藩と戦うことにしました。この戦いを「大田・絵堂おおだ・えどうの戦い(1865年)」といい、高杉の呼びかけに応じた奇兵隊・遊撃ゆうげき隊・力士りきし隊・八幡やはた隊・膺懲ようちょう隊などの諸隊しょたい(奇兵隊にならい藩内各地にできた有志たちの隊)が戦った結果 、藩の軍は総くずれし、敗れました。
 一方、幕府との戦い(第1次)の直前に、馬関戦争でイギリス・フランス・アメリカ・オランダによる4国連合艦隊の攻撃こうげきを受け、外国の強さを知った長州藩の木戸孝允きどたかよしらは、強い統一された国家をつくることが必要だとさとっていました。同じころイギリスとの戦いから攘夷が不可能であることを知った薩摩藩は、土佐とさ藩出身の坂本竜馬さかもとりょうまらのなかだちにより、1886年に長州藩と同盟どうめい(いわゆる「薩長同盟」)を結び、倒幕をめざすこととなりました。












大田・絵堂の戦い(金麗社)     大田・絵堂の戦い(金麗社)

 1866年(第2次)の幕府との戦いは、長州の四方の藩境はんきょうで戦われたので、長州藩では「四境戦争しきょうせんそう」とよびました。この四境戦争では、幕府軍10万をこえる兵力に対し、長州軍は4〜5千程度の兵力で戦いましたが、勝利をおさめたのです。
 この戦いの敗北や新しい社会を求める民衆の動きなどにより、幕府は、大政奉還たいせいほうかん(朝廷に政権を返すこと)をしました。そして、時代は明治維新へと移っていきました。

 このように長州藩が、幕末・維新の動乱どうらん期に示したエネルギーは、明治維新を進めるうえで大きな役わりをはたしました。この大きなエネルギーを生み出すもととなったものの一つに、長州藩の教育水準すいじゅんの高さと底辺の広さがあったといえます。
四境戦争 四境戦争
 
四境戦争の勝因
主なものとして、次の3つがあげられます。
(1)優れた指揮者
 高杉晋作と大村益次郎おおむらますじろうたちが優れた戦略せんりゃくで指揮をとったこと 
(2)洋式軍備
 幕府軍に比べて軍隊の洋式化が進んでおり、武器も高性能であったこと
(3)戦闘意欲せんとういよく
 2度の攘夷戦じょういせんを経験し、ここで敗れれば長州藩が滅亡めつぼうするという防長士民の危機感に対抗できる幕府兵の意欲はなかったこと
 「長防士民合議書」
1866年3月、四境戦争を目の前にひかえ、長州藩は、防長2州の 全住民に「長防士民ちょうぼうしみん合議書」という戦争の目的を書いた文書をくばったといわれています。歴史をつうじてこのようなことをした大名は長州藩だけです。
 20万部くばったとも、30万部以上くばったともいわれていますが、なぜこれだけ多くの文書をくばる価値があったのでしょうか。住民がこのような文書を読むことができ、理解できたからです。もし、そうでなければ時間やお金などのむだ使いということになります。このようなことからも、その時代の長州藩の庶民教育がいかに普及していたかを知ることができます。
 ちなみに、この文書は、ペリーの来航以来、藩主父子がいかに朝廷に忠節ちゅうせつをつくしてきたかを説明し、しかも朝敵ちょうてきの「冤罪えんざい(ぬれぎぬのこと)」をうけた無念さをといたものです。さらに、終わりのところに、「のちの世の中に志があやまって伝えられないように、すべての人がこの文書をふところに入れ戦場に立つ」と付けたして書いてあります。
「教育のあゆみ」
  
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江戸時代の長州の教育機関普及率
毛利敬親もうりたかちかの先見性
*幕末長州藩の独自性は、この藩主の「人材育成の眼」に負うところ大です。
蛤御門はまぐりごもんの変に散った久坂玄瑞くさかげんずい
*高杉晋作とともに松下村塾の双璧そうへきといわれた俊才の運命は?


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奈良本辰也監修 『萩が生んだ若き志士』 山口県萩市(萩幕末維新祭実行委員会) 1991年  
山口県教育委員会編 『ズームアップ 山口』 山口県教育委員会 1992年  
竹内理三編 『角川日本地名大辞典 35山口県』 角川書店 1988年  
小川国治編 『山口県の歴史』 山川出版社 1998年   
八木 充編 『図説 山口県の歴史』 河出書房新社 1998年
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