教育 教育のあゆみ これからの山口県教育
教育のあゆみ
 本県は、朝鮮半島と一衣帯水いちいたいすい(狭い海峡をへだてて近くにあること)をなしており、古くから大陸との交流が盛んに行われ、室町時代には大陸文化を取り入れた絢爛けんらんたる「大内文化」が開花しました。
 江戸時代になると、藩校や郷校ごうこうが置かれ、教育に力が注がれましたが、ことに庶民の教育に当たった寺子屋てらこやの数は、全国第2位 を誇るなど、教育に熱心な土壌どじょうが生まれ、明治維新めいじいしんの原動力となった多くの先人を輩出はいしゅつしました。
 明治時代に入ってからも、各方面で様々な人材を輩出するなど、教育や人材の育成に熱心な県民性は、「教育県山口」の名を高らしめました。
 こうした本県教育の特色は、豊かな先見性せんけんせい進取しんしゅの気質などとともに、「若者に期待し、若さにたくしてきた」優れた教育風土に代表されると言われており、本県が未来に引き継ぐべき貴重な財産となっています。
 このような伝統の下、現在では「未来を(ひら)く たくましい『やまぐちっ子』の育成」を教育目標に掲げ、本県の実情に即した各種教育施策を総合的・計画的に推進しています。

松下村塾
松下村塾



清狂草堂
清狂草堂

 ○昔から教育熱心だった山口県
 幕末・維新の激動期げきどうきに、長州藩から多数の人材を輩出した最大の原因は、長州藩の教育水準の高さと底辺ていへんの広さにあったといわれています。
 1719年、防長文教のといわれる毛利吉元もうりよしもとによって初めて建てられた藩校明倫館はんこうめいりんかんは、江戸末期に200あまりを数えた藩校のうち12番目にできたもので、幕末期には、設備、教育内容ともに勉強に必要なものをすべて備えた学館となり、藩校としては天下にほこる見事なものだったといわれています。 また、明倫館が建てられたことをきっかけに、藩内各地に、支藩校、郷校、私塾がつくられました。さらに幕末期には、寺子屋などの庶民教育しょみんきょういくにも力がそそがれました。

藩校明倫館
藩校明倫館


明倫館
明倫館の額(草場居敬の書)



 
幕末維新期に全国1位 だった郷校ごうこう(官学)の数
 20校(全国108校)
  郷校は毛利氏一門や重臣じゅうしんが、その家臣団かしんだんの教育のため につくったものです。長州藩では、幕末期の危機的ききてき状況の中で、「挙藩一致体制きょはんいっちたいせい」の確立かくりつが求められ、郷校や寺子屋の教師であった武士階級の庶民への働きかけは大きい意味をもっていました。
全国2位 だった寺子屋てらこや(私学)の数
 1,304校(全国約15,550校)
 寺子屋の経営者は、郷里にいる武士や村落の中の庄屋しょうやなどの村の役人に あたる人々のほか僧侶、神官、医者などの人々が、庶民の子弟していを対象に、いわゆる「読み」・「書き」・「そろばん」をお教えました。長州藩の寺子屋は、特に商品 経済の発達がめだった瀬戸内海側に多く、教師は武士が多かった(全国平均26%に対 し、長州藩は44%)ことが特色といえます。
全国4位 だった私塾しじゅく(私学)の数
 106校(全国1,140校)
 私塾でふつう教えられた学科は、和漢書わかんしょ筆道ひつどう算術さんじゅつなどでしたが、幕末期の長州藩では、武士と庶民をつなぐ政治的な関心の強 い個性的な私塾があったことに特徴があります。特に、吉田松陰よしだしょういん松下村塾しょうかそんじゅくや僧の月性げっしょう清狂草堂せいきょうそうどう(時習館)は、維新の動乱期どうらんきに大きな役割をはたし、寺子屋や郷校の教師をとおして庶民教育に大きな影響を与えました。高杉晋作たかすぎしんさく奇兵隊きへいたいや諸隊がつくられたのは、私塾の教育活動の結果 で、参画さんかくした指導者たちは、私塾での教育を実践に生かそうとしたのです。なお、塾の経営者は武士が大変多く約70%でした。


調べてみよう!

 皆さんの近くにあった郷校、私塾、寺子屋ではどのような勉強をどのようにしていたのでしょうか?
山口県教育委員会編 『ズームアップ 山口』 山口県教育委員会 1992年  
(財)山口県教育会編 『山口県教育史』  (財)山口県教育会 1986年   
山口県教育委員会編 『山口県教育振興基本計画』 山口県教育委員会 2013年小川国治・小川亜弥子 『山口県の教育史』 思文閣出版 2000年
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