明治35年(1902)、父の勤務先長崎市で生まれたが、河上家は吉川藩に仕えた岩国の士族でした。東京大学経済学部を卒業し、 |
明治12年(1879)、岩国市 |
明治16年(1883)、柳井市 |
明治29年(1896)、田布施町の佐藤家の次男として山口市で生まれ、後に父の実家を継いで岸姓を名のりました。東京大学卒業後、農商務省に入り、事務次官を経て商工大臣となりました。戦後、昭和32年(1957)から2度にわたって内閣総理大臣に就任し、26か国を訪問して積極的な首脳外交を行いました。また、政治生命をかけて日米安全保障条約の改定に取り組み、昭和35年(1960)、新しい条約を締結しました。 |
岩国藩第三代藩主の吉川広嘉は、毎年のように |
1833年、萩市 |
1840年、萩市の藩医の家に生まれ、藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰の門下生となり、高杉晋作と並んで「松下村塾の |
幼名を亀吉といい、明治4年(1871)に千葉県で生まれましたが、4歳のとき父の転勤で山口に移り、少年時代を過ごしました。東京専門学校(現早稲田大学)を中退した後、田布施町 |
1842年、藩士 |
明治2年(1869)、萩市 |
1817年、大畠町 |
阿武町奈古に生まれ、慶應義塾を卒業後、福沢諭吉の教えを受け水産業の発達を志しました。わが国で初めてノルウェー式捕鯨技術を導入し、日本遠洋漁業家具式会社を設立しました。「捕鯨の父」と呼ばれています。 |