杉民治
(
すぎみんじ
)
吉田松陰の兄で、1828年、萩市
松本
(
まつもと
)
に生まれ、松陰とともに厳しい教育を受けて育ちました。やがて藩の役職につくと、松陰が遊学するための旅費や学資を送り、活動を支え続けました。
民政
(
みんせい
)
の仕事を好み、名民政家として認められ、藩主から「民治」の名をもらいました。維新後、松下村塾を再興して青少年の教育に当たり、晩年は萩
修善
(
しゅうぜん
)
女学校の校長として女子教育の発展にも尽くしました。
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周布政之助
(
すふまさのすけ
)
1823年、萩に生まれ、藩校明倫館で学び、やがて
村田清風
(
むらたせいふう
)
の意思を継承して藩政の中心人物となり、外国と戦うことを主張し、戦争に備えるため財政の建て直しに取り組みました。吉田松陰とは対立することも多く、老中暗殺計画などの過激な行動を抑えるため、松下村塾を閉鎖させましたが、松陰の死後は高杉晋作らのよき理解者となり活動を支援しました。最後は
禁門
(
きんもん
)
の変の責任をとって切腹しました。
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高島北海
(
たかしまほっかい
)
1850年、萩市
江向
(
えむかい
)
の藩医の次男に生まれ、藩校明倫館の後、フランス人技師から地質学などを学び、山口県の詳細な地質図を作りました。五十代で日本画家になることを決意し、
長門峡
(
ちょうもんきょう
)
や
石柱渓
(
せきちゅうけい
)
などのふるさとの名勝を描きました。エミール・ガレなどフランスのアールヌーボーに影響を与えたことでも知られています。作品に「
山水図襖絵
(
さんすいずふすまえ
)
」等があります。
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高杉晋作
(
たかすぎしんさく
)
1839年、萩市菊屋横丁の上級藩士の長男に生まれ、
久坂玄瑞
(
くさかげんずい
)
と並んで松下村塾の
双璧
(
そうへき
)
と呼ばれました。身分にかかわらない
奇兵隊
(
きへいたい
)
を組織し、下関の
功山寺
(
こうざんじ
)
で兵を挙げました。大田絵堂の戦いで藩論を統一し、四境戦争では
小倉口
(
こくらぐち
)
を指揮して長州藩を勝利に導きましたが、翌年
結核
(
けっかく
)
で亡くなりました。
東行
(
とうぎょう
)
の号でも知られています。
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田上菊舎
(
たがみきくしゃ
)
本名を
田上道
(
たがみみち
)
といい、1753年、豊北町
田耕
(
たすき
)
に生まれました。二十代後半で、俳句の道に進む決心をして
尼
(
あま
)
になり、ずだぶくろと
琴
(
こと
)
をかかえて全国各地を旅しながら、
一字庵
(
いちじあん
)
という号で俳句や和歌、漢詩などをつくりました。還暦を迎えて下関市
長府
(
ちょうふ
)
に落ち着くまで、創作をしながら30年余りにわたって歩き続け、「
女芭蕉
(
おんなばしょう
)
」と呼ばれました。
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田中義一
(
たなかぎいち
)
1863年、萩市
菊屋
(
きくや
)
町の藩士の家に生まれ、陸軍士官学校陸軍大学を経て、日清・日露戦争で功績を認められ、陸軍大臣となりました。昭和2年(1927)には内閣総理大臣となり、普通 選挙による初めての総選挙を実施しました。中国に対する積極政策を取り、
山東
(
さんとう
)
出兵を強行しますが、
奉天
(
ほうてん
)
で起きた
張作霖
(
ちょうさくりん
)
爆死事件の責任をとって総辞職した後、心臓病のため急死しました。
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田中絹代
(
たなかきぬよ
)
明治42年(1909)、下関市
丸山
(
まるやま
)
町で生まれ、
松竹
(
しょうちく
)
撮影所に入り、
無声
(
むせい
)
映画でデビューしました。昭和6年、日本で初めてのトーキー映画に出演し、戦前・戦後を通 じて大スターであり続けました。また、日本初の女性映画監督としても活躍しました。晩年には演技の鬼と呼ばれ、映画「
楢山節考
(
ならやまぶしこう
)
」で老婆の役になりきるため、自身の前歯を抜いたというエピソードは有名です。
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田中藤六
(
たなかとうろく
)
衰退する製塩業を建て直すため、1771年、防府市
佐野
(
さの
)
の田中藤六は、「
三八替持法
(
さんぱちかえもちほう
)
」を行うよう、
藩主重就
(
しげたか
)
に願い出ました。塩つきの悪い寒い時期は仕事を休み、塩浜を一日おきに使うなど、費用を節約し、効率よく塩を作るための方法で、これにより長く日本の製塩業を安定させることができました。人々は功績をたたえて「
塩釜明神
(
しおがまみょうじん
)
」と呼ぶようになりました。
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種田山頭火
(
たねださんとうか
)
明治15年(1882)、防府市
八王子
(
はちおうじ
)
で大地主の長男に生まれました。四十代半ばから
托鉢僧
(
たくはつそう
)
の身なりで
行乞流転
(
ぎょうこつるてん
)
の旅をしながら、1万句に及ぶといわれる俳句をつくりました。
漂泊
(
ひょうはく
)
の詩人と呼ばれ、小郡の
其中庵
(
ごちゅうあん
)
や湯田の
風来居
(
ふうらいきょ
)
にも滞在しました。季語や字数にとらわれない独特の作品は、現在でも高い人気を集めています。
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中内右馬允
(
ちゅうないうまのじょう
)
いまの玖珂郡北部は
山代
(
やましろ
)
と呼ばれ、高い山に囲まれ田畑の少ない地域でした。美川町
波野
(
はの
)
の
中内与左衛門
(
ちゅうないよざえもん
)
は、貧しい農民を救うため、広島から紙の作り方を持ち帰り、紙を作る仕事を始めました。紙の原料となる
楮
(
こうぞ
)
は山代の土地によく合い、
山代紙
(
やましろがみ
)
として全国に知られる特産物になりました。農民は与左衛門に感謝し、
楮祖
(
ちょそ
)
神社にまつりました。
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