毛利吉元
(
もうりよしもと
)
1707年、5代藩主となった吉元は、政治をよくするためには有能な人材を育てる必要があると考え、苦しい藩の財政から多くの費用をつぎ込んで、藩校「
明倫館
(
めいりんかん
)
」を建てました。明倫館は、
水戸
(
みと
)
の
弘道館
(
こうどうかん
)
、岡山の
閑谷黌
(
しずたにこう
)
とともに天下の三館とたたえられました。また、教育県としての山口の教育と学問の中心地となり、維新で活躍する多くの人材を生み出す原動力となりました。
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山尾庸三
(
やまおようぞう
)
1837年、山口市
秋穂二島
(
あいおふたじま
)
で長州藩士の次男として生まれ、江戸で航海術を学んだ後、
伊藤博文
(
いとうひろぶみ
)
らとともにイギリスに留学し、造船学などを学んで帰国しました。明治になると、工業教育の必要性をとなえ、工部大学校(現在の東京大学工学部)の創設に貢献しました。また、身体障害者問題に早くから関心をもち、東京に
盲訓院
(
もうくんいん
)
という盲学校を設立したことでも知られています。
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山県有朋
(
やまがたありとも
)
1838年、萩市
川島
(
かわしま
)
で
中間
(
ちゅうげん
)
の長男に生まれ、
久坂玄瑞
(
くさかげんずい
)
の紹介で松下村塾に学びました。奇兵隊では、大田絵堂の戦いや
戊辰
(
ぼしん
)
戦争などで活躍しました。維新後は、
西南
(
せいなん
)
戦争で政府軍を指揮するなど、軍部の中人人物となりました。内閣総理大臣を2度務め、
枢密院
(
すうみついん
)
議長となってからは
元老
(
げんろう
)
として、長く政治の中枢にあり続けました。
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山田顕義
(
やまだあきよし
)
1844年、萩市
松本
(
まつもと
)
で藩士の長男に生まれ、藩校明倫館の後、松下村塾に学びました。近代フランス兵学に精通 し、維新期には高杉晋作らとともに軍人として活躍しましたが、明治政府では初代の司法大臣として近代法の確立に努めました。また、外国の法律を含む近代法を教えるための学校づくりに取り組み、明治22年に日本法律学校(いまの日本大学)を設立し、次いで
國學院
(
こくがくいん
)
も創設しました。
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横山建堂
(
よこやまけんどう
)
本名を
達三
(
たつぞう
)
といい、明治5年(1872)、萩で生まれ、長門市
深川湯本
(
ふかわゆもと
)
で松下村塾の門下生だった父の教育を受けて育ちました。東京帝国大学卒業後、新聞記者や大学教授をつとめながら、
黒頭巾
(
くろずきん
)
の号で評論家として活躍しました。「
長周游覧記
(
ちょうしゅうゆうらんき
)
」など山口県に関する著作も多く、長門の
青海島
(
おおみじま
)
を「海上アルプス」と名づけたことで知られています。
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横山白虹
(
よこやまはっこう
)
本名を
健夫
(
たけお
)
といい、明治32年(1899)、評論家
横山健堂
(
よこやまけんどう
)
の子に生まれ、幼い頃は長門市
深川湯本
(
ふかわゆもと
)
に住んでいたこともあります。九州大学在学中には、
川端康成
(
かわばたやすなり
)
らと詩会を設立し、
北原白秋
(
きたはらはくしゅう
)
らに指導を受けました。また、
高浜虚子
(
たかはまきょし
)
など著名な俳人とも交流があり、現代俳句協会会長を長年務め、俳句の振興に尽くしました。
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吉田松陰
(
よしだしょういん
)
1830年、萩市
松本
(
まつもと
)
で藩士の次男に生まれ、吉田家の養子となりました。各地を回り、
佐久間象山
(
さくましょうざん
)
らから多くのことを学び、見識を深めました。海外渡航に失敗して捕らえられ自由を失いますが、松下村塾を開いて身分を問わず教育を行い、有能な人材を多く育てました。
安政の大獄
(
あんせいのたいごく
)
により若くして処刑されましたが、その遺志は高杉晋作ら門下生たちに引き継がれました。
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渡辺祐策
(
わたなべすけさく
)
1864年、宇部市
小串
(
こぐし
)
に生まれましたが、不幸が続き十代半ばにはすべての身内を失っていました。岩国の
東沢瀉
(
ひがしたくしゃ
)
の塾で学んだ後、宇部村会議員や助役を務めながら、炭鉱経営に挑み、明治30年(1897)、3度目となる
沖ノ山
(
おきのやま
)
炭鉱の開発に成功すると、石炭産業を中心としてさまざま産業に取り組み、現在の宇部の基礎を築きました。また、宇部中学校の設立など教育の振興にも貢献しました。
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