西日本各地に広まった大敷網 |
空から見た宇田浦の大敷と呼ばれる定置網 |
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■大敷網の起こり
豊浦町湯玉漁港の近くに、大敷網発祥の地の石碑がある。豊浦郡水産資料によれば、元和年間(1615年〜1624年)岩見出し、前網、大曾根、壁の沖の4か所に大敷の網代があったとあり、第2回水産博覧会調査報告書には、明暦2年(1656年)山本惣左衛門が回遊している魚の群れを見て考案したとある。当時は画期的な漁法であったので、五島や対馬などに伝わり行われるようになった。 |
■大敷網の変遷
大敷網は魚の通り道の網を張っておく、いわゆる定置網である。魚が入りやすい反面、逃げやすい面もあったので、入り口の近くでやぐらを立てて見張っていた。その後大謀網となり、現在は落し網が主流になっている。 |
■宇田の大敷
風土注進案の宇田村には、大敷網の記載があり、江戸時代から盛んに行われていたと思われる。昭和16年(1941年)に宇田浦大敷組合が発足し、組合としての運営を開始した。宇田郷地区には2か所大敷網があり、昔は宇田浦の網代が潮の流れが速く、豪快な漁でもあるということで、”男網代”、尾無は”女網代”と呼ばれていた。漁は9月下旬から翌年の7月下旬で、海がしける日以外はほぼ毎日出漁している。とれる魚は季節によって違いはあるが、ブリ、アジ、イカ、タイ、サワラなどが主で、その漁獲高は一定していない。また後継者が少ないことも悩みである。 |
大敷の漁が描かれている川島神社の絵馬 |
みこしが海をわたる三穂神社の夏祭り |
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■ 撮影協力 |
杉村重夫(宇田浦漁業協同組合)、水津久蔵(宇田浦大敷組合長)、山下登志人(大敷船長)、修行大助(長崎県上対馬町) |
■ ナレーション |
村田和己 |
■ 資料提供 |
石城和雄(豊浦町)、山口県文書館、山口県立山口図書館、山口県農林水産部、山口県外海水産試験場、宇田郷漁業協同組合、宇田浦大敷組合、尾無大敷組合 |
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