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岩田いわたみつ  
   1809年、柳井市阿月あつきの農家に生まれ、幼い頃から機織はたおりが好きで、十代半ばですでに独自の模様を工夫して織るほど熱心でした。木綿の行商をしていた里平さとへいと結婚すると、2人で布の織り方や染め方を研究し、阿月がすりというめずらしい模様の布を完成させました。やがて阿月がすりは、里平と息子の嘉助かすけが改良したいつでも軽く回る糸車といっしょに、四国や九州でも大流行しました。  
 
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氏原大作うじはらだいさく  
   本名を原阜はらとおるといい、明治38年(1905)、阿東町篠目しのめに生まれ、小学校の教員になりました。幼い頃から読書好きで、新聞に短歌を投稿したり、雑誌を作ったりしていましたが、雑誌の懸賞小説で一等を取ると教員をやめ、作家の仕事に専念しました。戦後、童話「ふんどう屋のエントツ」が小学校の教科書にのせられ、全国で親しまれました。家族を愛し、生涯ふるさとを離れずに作品を書き続けました。  
 
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大内弘世おおうちひろよ  
   大内氏第24代の大内弘世は、長門の厚東ことう氏を滅ぼし、1368年防長両国を統一しました。京都にあこがれた弘世は、現在の山口市に京都に似せた町をつくり、京都から神社や多くの人を招いて山口の文化を高め、西の京と呼ばれるようになりました。やがて大内氏は滅びましたが、瑠璃光寺五重塔るりこうじごじゅうのとうや通りの名前は現在でも残っています。また祇園ぎおん祭や大内人形もこの頃生まれました  
 
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大村益次郎おおむらますじろう  
   1824年、山口市鋳銭寺すせんじの医者の子として生まれ、豊後ぶんご咸宜園かんぎえんや大阪の適塾てきじゅくで学びました。やがて兵学者として名をあげて長州藩士となり、洋式の装備を整えることに努めました。西洋兵学に精通した天才軍師として、戊辰ぼしん戦争では多くの作戦を立て明治新政府の軍制の基礎を築きましたが、明治2年(1869)、京都で俗論党の長州藩士に襲われて亡くなりました。  
 
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笠井順八かさいじゅんぱち  
   1835年、萩市浜崎町はまさきちょうで身分の低い武士の三男として生まれました。藩校明倫館に入り優秀な成績を修めますが、学問の場で身分によって差別 されることの不合理を訴え、藩校をやめてしまいました。その後、体験を通じてそろばんなどの実学を身につけて、藩の財政の重要な仕事につきました。やがて明治になると、日本で初めての民間のセメント工場を小野田に建設し、現在のセメント工業の基礎を築きました。  
 
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柏木幸助かしわぎこうすけ  
   1856年、防府市三田尻みたじりの薬屋に生まれ、華浦かほ医学校で化学を学びました。最初にマッチを研究し、製造に成功して海外へも輸出しましたが、火事で工場が全焼して防府産のマッチは姿を消しました。続いて、水銀を利用した体温計の研究に取り組み、日本で初めての体温計を完成させました。その後も化学の研究を続け、柏木ジアスターゼという消化剤やアルコール蒸留器の改良など、さまざまな発明をしました。  
 
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香月泰男かづきやすお  
   明治44年(1911)三隅町の医者の家に生まれましたが、幼い頃に両親と生き別 れ、祖父母のもとで育てられました。幼い頃から絵画に興味をもち、東京美術学校で西洋画を学びました。昭和18年(1943)に召集され大陸に出征しますが、敗戦とともにシベリアに抑留よくりゅうされました。後にこの過酷かこくな体験を描いた「シベリア・シリーズ」が代表作として高い評価を受けています。昭和49年(1974)死去。  
 
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桂太郎かつらたろう  
   1847年、萩市平安古ひやこで萩藩士の長男として生まれ、藩校明倫館で学び、戊辰ぼしん戦争では北陸の戦いで参謀として活躍しました。維新後、自費でドイツに留学して軍事や経済学を研究し、陸軍で実績をあげて、国政の中心人物となりました。明治34年以降、3度内閣総理大臣を務め、藩閥はんばつ政治から政党政治に移り変わる変動の時代において、長い外国生活で身につけた外交や財政の手腕を発揮しました。  
 
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金子みすゞかねこみすず  
   本名を金子テルといい、明治36年(1903)、長門市仙崎せんざきの本屋の家に生まれました。大津おおつ高等女学校を卒業後、下関市南部町なべちょうの本屋に移り住み、「みすゞ」のペンネームで童謡を書き始めました。雑誌への投稿がきっかけで西條八十さいじょうやそに認められ、日本を代表する詩人となりました。26年の短い生涯の中で、「大漁」「私と小鳥と鈴と」など500余りの作品を残しました。  
 
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狩野芳崖かのうほうがい  
   1828年、下関市長府印内町ちょうふいんないちょうで絵師の長男に生まれ、江戸の狩野雅信かのうまさのぶに学びました。伝統にしばられた工夫のない日本画の勉強法に反発し、何度も破門されかけながら、生きた絵を描きたいという信念をもって描き続けました。明治17年(1884)、アーネスト・フェノロサに高く評価され、新しい日本画運動が盛り上がりました。代表作に「悲母観音ひぼかんのん」等があります。  
 
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