香月泰男: 1911―1974(長門市)
近代日本洋画界に偉大な足跡を残した香月は、日本海に面した山陰の長門市で生まれました。人間愛と平和をテーマに創作活動に情熱を燃やし、戦争とシベリア抑留(を除いては、62歳でその生涯を終えるまで、ここが「私の地球だ」と言って、故郷を離れることはありませんでした。
シベリア抑留体験の記憶を基に描かれた代表作《シベリア・シリーズ》は余りにも有名です。第二次世界大戦中の昭和18年から20年まで、満州ハイラル(現在の中国の東北部)から妻子にあてた郵便計361通は、妻子を愛した家庭人香月の温かい一面を見ることができます。
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種田山頭火(: 1882―1940(防府市)
昭和の芭蕉とも呼ばれた漂白(の俳人(です。防府の大地主の子として生まれ、早稲田大学に進みました。しかし、一ヶ所に留(まることができない性格から、大学を2年で中退し、その後、東京市役所(当時)事務員や一ツ橋図書館臨時雇(など職を転々とします。
関東大震災を機に熊本に移り住み、その後44歳で出家し、翌年からあての無い一笠一鉢(の旅に出かけました。中国地方を中心とした8年間にわたる全国行乞(は、松山で終わり、その流浪(の生涯を閉じました。58歳でした。生涯に一万余りの珠玉
( の俳句を残しましたが、その俳句は、季語や字数にとらわれない自由な作風で、代表的な句集に「草木塔(」があります。
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中原中也(: 1907―1937(山口市)
中也は、山口県山口市湯田温泉で、軍医の家の長男として生まれました。一度も定職に就く事はなく、30年の短い人生をひたすら詩作に捧げたことから、「夭折(の詩人」と呼ばれています。
中也の主な詩集は、生前に出版された処女作の「山羊(の歌」、また死の直前に編集し、
没後出版された「在(りし日の歌」の2冊です。倦怠感(や喪失感(、そして生への悲しみを叙情的(に表現する中也の作風は、死後、評価が日増しに高まり、出版された全集や伝記本は現在、数十冊にも及んでいます。
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金子みすゞ(: 1903−1929(長門市)
山口県長門市仙崎 (旧大津郡仙崎村)に生まれ、本名を金子テルといいます。大正末期、すぐれた作品を発表し、西条八十(から「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛(され、当時の童謡詩人たちのあこがれの星となりました。しかし、512編の作品を残し、26歳の若さでこの世を去りました。没後その作品は散逸(し、幻の童謡詩人と語り継がれるようになりました。
平成8年(1996)4月からは、小学校国語教科書や道徳の副読本などで、全国の子どもたちがみすゞの詩と心にふれるようになりました。代表作は「お魚」「打出(の小槌(」「私と小鳥と鈴と」など。
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藤原義江(: 1898―1976(下関市)
「われらのテナー」として親しまれた世界的オペラ歌手藤原義江は、英国人の父と日本人の母の間に生まれました。イタリアに音楽留学したのち、ロンドンで披露した歌声が爆発的な評価を受け、デビュー数年で日本人初の「ビクター赤盤芸術家」としてアメリカでレコードを吹き込み、世界的音楽家としての名声を得ました。昭和9(1934)年、藤原歌劇団を創設してからは、当時の有名な演奏家との交流も多くなり、トスカニーニも彼の演奏を聞いたと言われています。
ふるさと下関への郷愁(が強く、自叙伝(の中で「わたしのうまれたのは下関...父にもわたしにも、この関門海峡は世界のどこよりも思い出の多い土地である...」と語っています。下関在住の直木賞作家古川薫さんが義江を題材にした「漂泊者(のアリア」を執筆し日本でも一躍脚光を浴びました。
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三輪壽雪((十一代休雪(): 1910− (萩市)
現代の萩焼の頂点に立つ三輪壽雪(本名・節夫)は、旧萩藩御用窯(である三輪家、九代雪堂(の三男として生まれました。旧制萩中学を卒業するとすぐに兄の休和((十代休雪)に師事し、陶芸への第一歩を踏みだしました。
やきものの修行は「土練り三年、轆轤(十年」などと言われますが、壽雪の場合、昭和30年(1955)に雅号(を「休」と称するまでおよそ三十年もの間、ひたすら休和に師事しています。第二次世界大戦中の一年間を除き一時も土から離れる事がありませんでした。昭和42年に十一代休雪を襲名(、三輪窯を継ぎ、昭和58年には、国の重要無形文化財「萩焼」保持者に認定され、陶芸界で前例を見ない兄弟人間国宝という快挙を成し遂げました。
現在は雅号を壽雪と称しています。
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狩野芳崖(: 1828−1888(下関市)
長府藩の御用絵師(の子として生まれた芳崖は、幼少から絵の天分を発揮していました。しかし、幕末の動乱期の一時期は、生活のために絵を描くことを中止していました。明治12年、橋本雅邦(の紹介で、「犬追物図(」制作のため島津家に雇われてからやっと生活が安定し、さらに明治15年(1882)、57歳の時にアメリカ人のフェノロサに見いだされ、ようやくその労苦が報われました。
その後、芳崖は美術界の新人養成機関が必要であることを時の首相伊藤博文に説き、美術学校(現在の東京藝術(大学)の創設に努力しましたが、美術学校開校を目前に61歳で亡くなりました。代表作に「悲母観音図(」がありますが、これは切手にもなっています。
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