タイトル

歴史 歴史の概観 年表 弥生人の渡来 東大寺再建と重源 壇ノ浦の決戦 大内文化と「西の京」 毛利氏 朝鮮通信使 巌流島の戦い 吉田松陰 高杉晋作  馬関戦争 幕末維新 廃藩置県と「山口県」の設置 8人の総理大臣 歴代の県知事
毛利氏
 ある日のこと、毛利元就もうりもとなりが三人の息子むすこを呼んで言いました。「ここに矢が3本ある。これを一本ずつ折ってみよ」息子達は簡単に矢を折ってしまいました。そこで元就はこう言いました。「それでは次に、3本をたばねて折ってみよ」 簡単だと思った息子達でしたが、1本ずつでは簡単に折れた矢も、3本まとまると誰も折ることが出来ません。その様子を見ていた元就は言いました。「一人だと毛利はつぶれてしまうが、三人で力を合わせれば、毛利は滅亡しない。」 つまり“矢”を毛利家にたとえ、戦国の世の中を生き抜くために、息子3人で協力しあいなさい…と教えさとしたのです。
 この話から「3矢の教訓」ということわざが生まれました。本当のところ、元就はこんな話をしたわけではないのですが、有名になりすぎて、元就とは切っても切れないものとなってしまいました。
毛利元就肖像画
毛利元就肖像画
・毛利姓のはじまり
 毛利氏は天穂日命あまのほひのみことの子孫と伝えられており、26代諸士もろひとのときに大枝おおえ朝臣のかばねをたまわり、28代音人おとんどの時に大江に改めました。平安末期には、源頼朝みなもとのよりともの招きに応じて鎌倉にくだった大江広元が、守護・地頭しゅご・じとうの設置を提案したことが認められ、相模国毛利荘さがみのくにもうりしょう(神奈川県)と周防国島末荘すおうこくしまずえしょう(大島郡)を領地にもらい、毛利荘を譲り受けた4男季光すえみつが、地名を取って「毛利」氏と名前を変えたのです。

・中国地方の支配
 季光の子、経光つねみつ足利尊氏あしかがたかうじ安芸国あきのくに(広島県)吉田荘の地頭職に任ぜられ、その4男時親ときちか以来、毛利氏は吉田の郡山城こおりやまじょうを本拠と定めました。
 16世紀前半、中国地方は大内氏と尼子あまこ氏が強大で、毛利氏の当主の元就は、尼子氏に対抗するため大内氏の家臣になるなど苦労していました。しかし、1551年、大内義隆よしたかが家臣陶晴賢すえはるかたに討たれたのを機に、元就は厳島いつくしまの戦いで陶氏を破ると、続いて大内氏をも滅ぼし、防長ぼうちょう二国を支配下に入れました。その後、尼子氏を滅ぼすと、ついに中国地方全域を支配するまでになりました。
・萩への築城
 しかし、1600年の関が原の戦いで、西軍の総大将格であった毛利輝元もうりてるもとは、徳川家康とくがわいえやす率いる東軍に敗れたため、毛利氏は8カ国から防長2カ国の36万石9千石に領地が減り、萩の指月山しづきやまへの築城を余儀よぎなくされました。以後260年間、萩を本拠地としましたが、幕末の動乱に際し萩では指揮が取りにくいことから、毛利敬親たかちかは、藩庁を防長の中心地である山口に移したのです。

藩庁門
藩庁門
 
百万一心
 「百万一心ひゃくまんいっしん」という毛利元就のことばがあります。このことばは、元就が郡山城(広島県安芸高田市)を拡張し、工事がとても難しくなったときに、高さ6尺、巾2尺(高さ1.8m巾0.6m)の巨石に「百万一心」と書き、彫りこんだときのことばです。「百」は一日、「万」は一力とも読め、およそ「全員が協力一致して事にあたれば何事でも成し遂げられる」というような意味で、元就の人柄を象徴しょうちょうすることばといえます。
大河ドラマ
 毛利元就は、平成9年にNHKの大河ドラマで放映されました。山口県では、この放映に併せて広島県や島根県などの毛利ゆかりの地と連携し、さまざまなイベントを展開しました。   
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長州藩
山口県文書もんじょ
  長州藩の藩政に関する多くの文書が収集保存収蔵されています。   
小川国治編 『山口県の歴史』 山川出版社 1998年   
八木 充編 『図説 山口県の歴史』 河出書房新社 1998年
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