タイトル

歴史 歴史の概観 年表 弥生人の渡来 東大寺再建と重源 壇ノ浦の決戦 大内文化と「西の京」 毛利氏 朝鮮通信使 巌流島の戦い 吉田松陰 高杉晋作  馬関戦争 幕末維新 廃藩置県と「山口県」の設置 8人の総理大臣 歴代の県知事
高杉晋作  
 高杉晋作たかすぎしんさくは1839年萩藩士の長男として生まれ、藩校明倫館に学ぶかたわら、松下村塾しょうかそんじゅくに入って吉田松陰に師事しました。
 晋作は、中国の上海しゃんはいに旅行した経験を通 じて、日本が当時の清朝のように植民地化しょくみんちかされてはならないと、強く思うようになりました。
高杉晋作
高杉晋作
・奇兵隊の結成
 長州藩が全国に先駆けておこした攘夷戦じょういせん(外国人を日本から追い出そうという考えにもとづいて行う戦争)に敗れた後、藩主から馬関ばかん海峡の防備を任された晋作は、1863年に下級武士や庶民の中から志願者を募って奇兵隊きへいたいを結成しました。これは、藩の正規せいき兵に対する「奇兵」の隊で、これを皮切りに、藩内では、遊撃ゆうげき隊、集義しゅうぎ隊などの「諸隊しょたい」が続々と誕生しました。これら諸隊の結成を皮切りに、藩は西洋式の軍隊を整えて倒幕とうばく戦争の大きな力となりました。
 1864年、晋作は下関の巧山寺こうざんじで兵をあげ、幕府に降伏した藩内保守派政権(保守派ほしゅは)を武力で追放し、倒幕政権(改革派かいかくは)を樹立じゅりつしました。これが、明治維新めいじいしんの第一歩となりました。
 その後も彼は、1866年の四境戦争しきょうせんそうで幕府軍を相手に活躍しますが、不幸にも病に倒れ、27歳にして短くも波乱はらんに富んだ生涯を閉じました。彼の菩提ぼだいは下関市の東行庵とうぎょうあんにとむらわれています。

功山寺
功山寺
 
辞世の句
 高杉晋作は、辞世じせい(この世に別れを告げる)の句として「おもしろきこともなき世を(に)おもしろく…」とよんだといわれています。晋作を看病かんびょうした野村望東尼のむらもとにという人が「住みなすものは心なりけり」と続けたともいわれています。この句は亡くなる数ヶ月前によまれたという説もあるようです。おもしろくないことがあった時なども、こころの持ち方次第でおもしろくなるということでしょうか…。晋作の葬儀そうぎは下関の豪商ごうしょうで国学者であった白石正一郎しらいししょういちろうがとりおこないました。白石正一郎は、奇兵隊設立時に私財を投げうって資金面 で援助した人物です。
  
小川国治編 『山口県の歴史』 山川出版社 1998年   
八木 充編 『図説 山口県の歴史』 河出書房新社 1998年
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